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パラリアの3次会、第10夜

おはようございます。今回は第10夜の解説です。総集編なので、いつもより少し長めです。ここ数回の教育の歴史シリーズのまとめなので、過去の回も合わせてお聞きください。

音声はこちらです。

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【要約】


教育の歴史について話してきたここ数回の振り返りで、時間的には古代・中世・近代・現代と区切り、空間的にはヨーロッパを念頭において、それぞれの時代で教育がどうなっていたかを語ります。

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まず古代は、ソクラテスやプラトンが活躍した時代のギリシアがテーマになる。民主政が花盛りのギリシアでは、議会でのし上がるためにも、裁判で自分の身を守るためにも、弁論の地位が高かった。そこで、代金をとって弁論術をはじめとする「知」を教えるソフィストと呼ばれる人々が出現します。他方ソクラテスは「知を教える」のではなく、対話の相手に「自分が知らない」ということを教えている。

知を教えることと、「知が欠けている」ことを教えることは一致しているところもあります(あることを知ると、「じゃあ、あれは?」というように、自分が知らないことの存在がわかる)。しかし、現代の教育で「知を教えること」の方ばかり注目されていることを踏まえれば、両者の区別をあえて打ち出すことで、「知が欠けている」ことを伝えることに固有の意義が明確になるのではないか、というのが話の一つの流れになる。

また、なぜ多くの小中高生が勉強しようと思わないのかを考えると、必要性が感じられないからではないかという話がされています。現実の問題を解決するために知が役立つのですが、小中高生の場合、対応すべき現実に触れる前に学校に入ってしまい、楽しさや実用性に気づかない、ということになってしまっている。

他方、面白さに気づけば終わりなく楽しめるのが勉強でもあります。では、どうしたら面白さに気づくのか。ここでは、物事との出会い方の良し悪しが一因ではないかと言われています。大学生だからこそ三四郎の面白さに気づけるように、幸福な出会いがあれば面白いと思える。

さらに、「わからないことをわかるようにする」というソクラテスの手法から展開して、教育現場では「わからないことがわからない」というのがしばしば見られるのではないか、という話がなされている。わからない原因にもいろいろあるにも拘らず、「なんとなくわかりません」と生徒が言う場合も少なくない。何が、どのようにわかっていないのかなど、「わからない」を分類できるようにすることが教える側にとって大切だと言う話がされる。

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中世の教育は、親方に弟子が見習う形式の教育であった。そのた生徒の職業が決まっていて、実地で教えてもらう形になるので、現代より教育が成功し易かった。
大学もまた、教師と生徒の組合であり、親方に見習いがついて学ぶのと変わらない。


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近代の特質としては、まず大学の変質が挙げられる。東大はフンボルト型。工学部。ものを作るのは大学のやることではなかったが、国力増強の観点から物づくりが大学内に入る。また、フンボルト型大学により、衰退傾向に陥っていた「大学」というシステムが復活したとされている。
また、日本の帝国大学をはじめとして、近代の大学は戦争に向けて組織化され、戦争に勝つための経済発展競争に勝つことを目的としていく。同様の目的のため、裾野を広げるものとして義務教育制度ができる。


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以上の歴史を踏まえ、現代の教育と近代的教育の間の軋みに関する議論へ進む。

近代的な国民国家や大量生産システムが現代では崩れている。今や皆が受験するようになり、高等教育を受けた人であふれかえっている。また、教育も消費中心になっており、人々の消費の仕方も、少品種大量生産(同じものをたくさん作る)から多品種少量生産(いろんなものをちょっとづつ作る)になっている。すると、求められる人材も、「周りと同じ仕事ができる人」ではなく、個性が要求される。労働市場で個性が求められることは、実は危険なことではないか。

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【用語解説】


3分ごろ「ヨギボ」
座り心地の良いクッションを作っているメーカー。

6分ごろ「ソクラティック・メソッド」
教師が学生に質問して、その返答に対してさらに質疑を重ねていくという教育方法。ソクラテスの産婆術(相手に質問を繰り返し、その返答の矛盾を指摘することで、自分が何も知らなかったと言うことを自覚させる方法)に由来する。教師が自らの答えを言わない(教師自身の見解は吟味されない)と言う意味で卑怯とも言える。

7分ごろ「不知の知」
よく知られた「無知の知」という言葉の問題については、納富信留『哲学の誕生』に詳しい。かいつまんで要約すると、「無知の知」という言葉はプラトンの作品中に出てこない(=プラトンはそういう言葉遣いをしていない)。その上内容面でも、「無知」だと「知ったかぶり」のようなニュアンスを含んでしまうし、「無知の「知」」といってしまうと、「知らないということを知っている」という一段上の知を持っているということになる(その結果、そういう知を持っているソクラテスを最大の知者とみなしてしまうことになる)。したがって「無知の知」という用語は「知らないことを、その通り知らないと思う」というソクラテスの立場を歪めてしまうので、「不知の自覚」と呼ぶべきだとされる。


7分ごろ「アポリア」
ある一つの問いに対して、理にかなってはいるが、相反する二つの解答が出てきてしまうような、難問のこと。


27分「オックスフォード、ソルボンヌ、ボローニャ、フンボルト」
それぞれ、イギリス、フランス、イタリア、ドイツの大学。前の三つは中世以来の大学で、フンボルト大学は近代になって設立された。

33分「帝国大学」
明治以来、西欧の文物を学ぶために作られた国立大学。最初に東京に「帝国大学」が作られ(のち、東京帝国大学と改称)、その後京都や仙台など、各地に設立された。現在の東京大学や九州大学など、いわゆる旧帝大の前身。なお、植民地の京城(ソウル)と台北にも設置されていた(今のソウル大学校と国立台湾大学)。

38分「街場のなんとか論」
フランス文学社、内田樹の著作のタイトル。『街場の文体論』『街場のメディア論』『街場の戦争論』『街場の天皇論』など、いろいろある。

40分「見田宗介図式」
社会学者見田宗介が、『現代社会の理論』で主張した図式。
「消費社会」を細かく見ると、機能・必要性で売る時代から、流行で売る時代に変わっていったということ。

車で例えると、大量生産可能なシステムができることで、みんなが車を持てるようになった。では、みんなが生活に必要な分の車を手に入れた状態で、2台目を買わせるにはどうしたら良いか。そこで、商品のデザインを変えたり、「流行りのモデルはこれ!」などと広告宣伝したりして、必要性を超えた需要を呼び込んだ、という感じ。


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