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充実とは

LEGOはいいぞ。
どうも、コーシです。

LEGOを作った。
007のアストンマーチン。
車内では”ジェームズ・LEGO・ボンド”がこちらに微笑みかけている。

はっきり言って、最高の時間だった。
ただただ、他に何もせず何も考えず、スマホの電源も切って、LEGOだけと向かい合った。
LEGO以外のものから疎外されていた。

心が何かで満ちている感覚。
充実していた。

充実とはなんだろうか、と最近よく考えてしまう。
俗にいう充実とはすごく広義に解釈されている気がする。

予定でパンパンのスケジュール帳。
街を幸せそうに歩くカップルの表情。
家族旅行。
1人でハンバーガーを心奥なくかぶりつく瞬間。
ベッドに入ると同時に薄れていく意識。
朝6時から起き続けている休みの日の夕方。

忙しい方が充実しているのか、時間がある方が充実しているのか。
主観的な娯楽が充実の要素なのか。
初体験の出来事が充実の要素なのか。
環境なのか、精神なのか、境遇なのか。

そもそも、今の私は充実しているのか

リア充なんていう今では新入りの死語みたいな言葉もちょうど僕らが中高生の時に流行っていた。

そもそもの心の充実は自分以外がなんとかしてくれるようなものではない気がしていて、なんだか疑問に思っていた。


LEGOを作っている時、大切なものを思い出すような、忘れていたことを指摘されていたような、そんな感覚があった。

最近の自分が忘れていたもの、それが分かると心をポジティブな何かで満たす術が分かるのではないか。
それが、充実の第一要素なのではないか。
となると答えは簡単に出た。
充実とは「たったひとつの対象と自分自身との密接」だ。


確かに、今そんな時間が一番少ないかもしれない。
ほんと、トイレくらいじゃないか?

私のエッセイの十八番とも言えるトイレの話だが、トイレという場所では排泄以外にすることがない。
故に我々はトイレでは、”体内から体外へ”のスローガンのもと徹底して排泄に取り組む
内容が内容ではあるが、この”たったひとつのことに向き合うこと”というのは、やるべきこと、やりたいことに囲まれて生活を営む私たちが、意識的に取り組まなければいけないことだと気づいてしまった。

だから最近、極端に長時間勉強をし出したのかもしれない。

僕らはトイレを出てしまうと、何かをしながら何かをしだす
仕方のないこと。みんな忙しいもん。
だから意識的にしてみるべきなのかもしれない。
たったひとつのことと向き合う。
この頭と心の営みこそが、充実であると思える。


大学の授業中、違う授業の勉強をしていた。
テスト前ではお馴染みの光景である。
ただ、授業内容自体もちょっと興味があるため、授業を小耳に挟みつつ自主学習をしていた。

集中しているからなんとか平常を保っているけれど、おそらくあの時脳細胞はパニックだと思う。

しばらくそんな状態で頑張っていると、頭の中で星野源の『喜劇』が流れ出した。

なんで今?
と思いつつ、LEGOの教訓からその心のゆくままに行動してみることにした。

講堂を一旦出て、人気の少ないベンチでイヤホンを付け、ノイズキャンセリングをして、『喜劇』を流す。

今、私は "『喜劇』を聴く"ということ以外の全てから逃れ、それだけに向き合う
好きだからしょっちゅう聴く曲なのに、いつもと違う音が聴こえてくる気がする。
いや、本当にいつもと違う音が聞こえる。

暑苦しいこの場所も、涼しげな風が吹いてきた。
肌に刺さるような日差しも、多少柔らかく、体が光を纏っている。
いつもより、早く、感じ方によってはゆっくりと時間が流れ、『喜劇』が鳴り止む。

不思議と頭はすっきりとしていて、集中の意欲が自然と、生えるように心に生まれた。
心は充実していた。


このようにして、私はLEGOとトイレと星野源から”充実”の心得を学んだ。

それからというものこの充実の一連のプロセスにハマってしまって、そこたか中で頭をすっきりさせ、心を充実させようとしている。

3日前は『パルプ・フィクション』を観ることに心から向き合いすぎて、昨日は『海辺のカフカ』を読むことに心から向き合いすぎて、電車に乗っているという事実から自らを疎外していた。

2駅分降り過ごしてしまった。

充実しすぎも考えようである。

 フクダコーシ しそとツナ缶。
 Instagram @f.kohhhhhshi_(アート投稿中!)
 Twitter @FKohhhhhshi

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