見出し画像

農×アート×教育×里山×自然保護

仲間たちと運営しているNPO法人森の美術館。
先日配信したインスタライブの振り返りとして。


近頃よく聞く、オルタナティブスクールやホームスクーリング、その他新しい形のフリースクール的な教育の形。
私は、それ自体を否定する立場では全くないし、大いに賛成という立場でもない。
公立が良いとか、私立だオルタナティブだとか、択一的な議論ではなく、どうしたらこの国の教育の現場を皆が良いと感じ、国際的にも時代遅れではないものとして認識されるようになるかに興味があるだけだ。それが、どんな教育法であるとか、どんな学校であるかには関わらず。

すべての子どもたちが、子どもらしい子ども時代を保証され、自分の足で生きていくことへの希望と喜びに満ちる日々を送れることが、子どもの教育に対するいまの私のスタンスだと感じる。
これは、息子の幼児期を過ごさせてもらったシュタイナー園での経験が大きく影響していると思う。

息子を通わせてみると、そこにあったのは私自身がこんな風に過ごしたかったと感じる世界だった。
私は、静かに美しい色遊びで絵を描きたかったんだと感じたし、元気な曲に合わせたお遊戯は本当はやりたくなくて、ただ砂場で穴を掘って遊んでいたかったのだと感じた。小さければ小さいほどに、同じリズムで繰り返される安心した空間で、思い切り自由遊びがしたかったんだと感じた。
しかし、それはあくまでも私の場合。
すべての子どもたちに同じ環境が適しているとは思わないが、子どもの発達という普遍的な事柄に対する捉え方を、子どもを通して学ばせて貰えたことはかけがえのない財産だと思っている。

その息子が就学のタイミングを迎え、私は公立小学校を選択した。
迷いに迷った。シュタイナー学校も見学したし、私立の学校にも体験入学に行った。でも、最終的には公立の小学校を選んだ。蔵王の麓の小さな小さな小学校。入学時には廃校になるということも分かっていた山の学校。全校生徒は20名。鬼ごっこも学校行事もすべてみんなでやらないと成り立たない。親も子も先生達もみんなが家族のような小学校だった。
結果、息子はとてものびのび過ごした。

どこを選んでも問題は起こり続け、すべてうまくいくことはないのだから、結局のところ、ある程度の年代になるまで選択権のない子どもからしてみれば、どんな教育を受けられるかは親のエゴからの選択でしかない。(将来大きくなった息子には、あの時は好き勝手にしてごめんね。と伝える覚悟だ。)
だからこそ、親は謙虚に何度でも振り返り立ち止まり、時には後戻りも臆さず、子ども達の幸せを真剣に考え続けていくことでしか、親の役割りを果たすことなんてできないのだろう。
社会の教育の現状を知ることやどこに向かおうとしているのか、その中でいち保護者として今いる場所で何が出来るのか。子どもを真ん中にして想像し続けていくことが最低限の務めだと思っているからこそ、教育というテーマは私の中では大きな事柄なのである。

PTA活動に関わることも当然の義務だと私は思っている。決して役員になるという意味ではない。
実際中に入ってみると、そこは可能性に満ちていて、自分次第でいくらでも拡げることが可能な領域でもあった。
隣町蔵王の遠刈田小では、アーティストインレジデンス事業を活用し、アーティストが日常的に学校で子ども達と活動している。公立の小学校でだ。やはり可能性の塊しか感じない。

どこにいても、どんな環境でも出来ることはある。
友人たちがいつも行動で示してくれることだ。
そんな在り方を子ども達にも見せ続けていきたいし、自分達にも出来るんだと大いに自信に繋げて欲しい。

何々教育とか、確立された教育論などの単なる手法の話や、あの学校は~、とか、この学校は~といった発展性のない議論ではない、純粋に“子どもが学ぶ”ということ、そしてその時の大人や社会の役割と在り方、教育という分野だけにとどまらない包括的な社会の在り様を語れる場が増えていくことを願っている。



私たちの活動は多岐に渡ってわかりにくいとよく言われる。
しかし、コミュニティ農園も、染織の事業も風力発電への活動も、すべてはツールと捉えている。この豊かな里山で、みんなで幸せに暮らしていくことを叶えるための手段でしかない。

教育を語ることも、環境問題に取り組むことも、すべて同じようにツールとして存在し、目的ではないということを、今年2024年は、『農×アート×教育×里山×自然保護』のようなテーマに乗せて、伝えていけたらよいなと思っている。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?