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海に潜る。

深い深い海の中にいる。魚もいない、陽の光も差し込まない。右を見ても左を見ても、誰もいない。髪の毛が縦横無尽に暴れまわる。わたしはただ、暗い海の中で途方に暮れている。

わたしは仕事ができない。
一応社会に出てはいるけれど(いまは休んでいるので出ていないも同然かもしれないが)、30歳にもなって何のスキルもなく、働いても長続きせず、人と歩調を合わせることができない。

できることとできないことで言ったら、できないことのほうが圧倒的に多く、できることなんて何もないに等しい。自分に合った働き方を模索してきたけれど、もう限界かもしれない。わたしは働けない。働こうとすればするほど、空回る。できない自分を見て苦しむ。わたしがわたしでなくなってゆく。ガラガラと音を立てて、足元から崩れてく。

noteを書いたとて、なのだ。書いたとて、何になる。それでも懲りずに書いている自分は何なのか。仕事のできないわたしが書く文章なんて、何の深みも学びもない。何もない人間が書いているのだから、当然のことである。
あゝそんな人もいるのね、大変だね、頑張ってねと、哀れまれ、嘲笑されて終わるのがオチだ。

こんな人間がこれからどうやって生きていったらよいのか。仕事ができない人間が生きてゆく術はあるのか。
自分の中だけに留めておけなくて、書かないとどうにかなりそうで、わたしは今日も、誰のためにもならないnoteを書いて眠る。

仕事ができない人に用のある人間など、そういない。いてもいなくても同じ。どんなに人当たりのよい優しい人であったとしても、仕事ができなければ、誰からも相手にされない。でも人は、そんなことで死んではいけないという。
どこに行っても職業を必ず聞かれる。ただ髪を切りに行った美容院でさえ、職業を聞いてくる。もううんざりだったから、空欄のままにした。

世の中は、その人が普段何をしているかで諸々の判断を下す。キャリアを語れる人ほど賞賛され、その眩しさに皆が目を細める。話を聞きたいと寄りつく。あなたは素晴らしいことをしている、あなたの生み出すものは世の中のためになる、あなたはすごい!あなたの話をもっと聞かせて!

法には触れないギリギリのラインで、道徳的に反した行いをしても、仕事をしていれば、それがその人の信頼性となり、社会はその人を受け入れる。仕事のできない人間はそうはいかない。社会不適合は弾かれて、笑われて、不憫だよね、ああはなりたくないよねと、何処かの居酒屋で誰かの酒の肴にされる。

東尋坊の崖に立って、すくむ足をなんとか奮い立たせようとする。前に進んでも引き返しても地獄。そんな行き場のないわたしがたどり着いた先は、またしてもnoteだった。書くしかないから今日も書いている。乱暴に、けれど慎重に、言葉を並べる。終わりが見えてくると、少しだけ安心する。

わたしは深い海に潜っている。もう息がもたないと、水面を目指して浮上する。もう少しで息が吸える。あと少し、もう少し。その少しが、途方もなく長い。

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