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人生800m走

#創作大賞2023

思い浮かべてください。みんなで一斉に走ります。
よーい、どん。スタートです。もっている能力、走り方みんな違います。

ごぼう抜きで前を走っていく人。
石につまづいて転ぶ人。
地面を向いてゆっくり走る人。
ゆっくり歩きながら周りを見回して、走る気配もないような人。

ごぼう抜きで前を走っていく人は、フォームもかっこよく、足の回転も速いです。ゴールに一番近い人とも、言えるでしょうか。一番のりという成功をつかむ気概に満ちています。

石につまづいて転んだ人は、意気消沈しています。たくさん怪我もしてしまいました。もう立ち上がれません。自分をぬいて前を走っていく人たちをみて、さらに意気消沈します。
石につまづいた時には、時間は止まります。なぜなら、速く走ることはすでにあきらめ、立ち上がることの方がまず、優先だからです。そのため、時間が長くなり、もてあますほどです。その時点で時間は無限にあります。

石につまづいて立ち上がれなくなった直後、自分の転んだ地面しか見えなくなります。とがった石がゴロゴロしていて、とても心地悪いところに寝ている感じがします。ひざや顔もすりむいてねんざもしているので涙がボロボロでてきました。

しかし、しばらくして涙が枯れると、自分の横にある大きな木に気づきます。その枝ぶりの広がりに驚嘆します。見たことのない鳥が鳴いている声が聞こえてきます。鳥の名を考えたりします。鳥の性質について気がつくこともあります。鳥の一生について考えをめぐらしたりすることもできます。

ふと、後ろをふりむくと、自分が走ってきた距離の長さに気づいたりします。しみじみと振り返ってあんなこともあったっけ。こんなこともあったっけ。それでもここまで来れたのだな、と思います。

ごぼう抜きの人には見えないものがあります。忙しくて周りの木や鳥は一瞬しか見えず、目に入っているようで入っていません。見たはずの木の種類も時々間違えたり、木の枝ぶりの様子も見えず、鳥の名前が何だったか思い出すこともできません。そこから漂う夕餉のにほひや、川のせせらぎも聞こえようもないのです。

つまづいた人は世界の解像度が高くなります。
近くにあるものが世界の全体(ミニチュア)だったりするので、それを味わいつくせるのです。

十分に満足できて、傷が治ってきたようです。つまづいた人は、、

そして、また自分のちょうどいい歩き方(走り方)を見つけて、この足であるけるスピードで木と花と鳥と風を感じながら少々ゆっくり歩いていけばいいのだと思い始めます。ゆっくり歩いたほうが自分に合っているし、愉しいことがわかったからです。

(ごぼう抜きの人には一生見えない木と花と鳥と風を心に秘めて)
(ごぼう抜きの人には経験できなかった、この経験を思う存分体に吸い込んんで)
(もうごぼう抜きの人にはなれないとちゃんと理解した上で)

800m走、100mが10年としましょう。あなたは、どこまできましたか?
わたしは500mです。何度かつまづいてきました。今も。
そろそろ、他人は気にせず、
ゆっくり歩いて、花鳥風月を見るのがいい年になりました。ものをゆっくりみて、味わい深く、思索したり、自分の来た道を振り返って好きなものや人の種類を確認し、あつめては、自己表現でこのnoteにアウトプットしたり。

誰がどんな風に走っているか、前を見ても、愉しくないからです。
愉しくあるには、自然をみたり、この世界や星空をみたり、ものを作ってみたり小説を書いたり、絵を書いたり、深淵な本を読んだり、再びの自分探しすることなのかな。

マラソン(800m走)という仕事(そのもの)には、あまり魅力がなくなっています。人生の妙味はできもしない仕事(や世界旅行)ではないからです。
たぶん、日本は働かないといけない年数が長すぎて、しんどくなっているからね。
(1000m走)

がむしゃらに何も見えず走っている(食べ物をやたら口に入れている)
場合じゃない。
自分のこの尊い一生は一度きりなのです。
歩いて見て、ゆっくりじんわり味わうべきなのです。

以上、共感していただけるとうれしいです。




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