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上級国民と戦うには 【教育格差のお話】

こんにちは。今回はお昼の投稿を目指します。
夜の方が感情的になりやすいイメージがありますからね。

上級国民は存在するのか

回答はYES

今のところわたしが2年以上生活の拠点を置いたのは日本だけ。したがって諸外国との差異を声高にあげつらうことは不適切かもしれない。
しかし一般的に見て現代日本はかなり身分制度の縛りが少ない国と言える。インドや英国と比較すれば当然で、多民族国家としての側面をほとんど有さないこともその一因だ。

にもかかわらず、というよりだからこそ生まれたのが「上級国民」という言葉だ。

ここ数年で広く使われるようになったように感じる。

特に2015年以降、権力者やそれに類する人が「一般国民」というフレーズを使用したことに端を発し、対義語的に彼らが「上級国民」であることを揶揄するというムーブメントがインターネットを中心に広まってしまった。

半分はジョーク、半分は本心といったところだろうか。

しかし皮肉なことに、以降の交通事故や性暴力事件の被疑者の取り扱いの差異を目の当たりにした我々は、結果的にその存在を意識させられることとなった。

その是非を問うのではない。意識させられたという事実が重要なのだと思う。

先述の通り、日本国民は法的に平等であるのみならず慣習的文化的身分の差異も少ないと感じる人が多く、かつては一億総中流という言葉も用いられたぐらいだ。

一方で近年特に”上”に立つかのような人々の存在を感じることが多いのではなかろうか。わたし個人としては明確に増えたように思う。

それはなぜだろう。情報の波だろうか。

ここでは一旦、資本家・旧財閥・世襲政治家や大企業創業一族といったホンモノの超上級国民を除いた上で話を進めさせてもらいたい。

本当に重要なのはもっと身近な”微”上級国民との闘いであると思うからだ。彼らと「一般国民」との差異が緩やかな身分制度を生み、現在の日本社会形成の礎となっている。本論のベースはそこだ。

上級国民を以下のように定義する。

・両親、本人が大卒以上の経歴で

・3代以上東京に在住しており

・子どもを私立中学に行かせるための金銭的余裕があり

・子どもが同等以上の経歴を獲得することがほぼ確実である

以上を満たす人々だ。

「え、それだけ?」と思うだろう。しかしその通り、これを満たすだけで十分に上級国民、成功者と言える。

こう定義すれば章タイトルの「上級国民は存在するのか」という疑問に対する回答は当然YESとなる。

わたしの考える肝の部分は

・子どもが同等以上の経歴を獲得することがほぼ確実である

ここである。

なぜそう感じたかを含め以降で私見を示したい。

わたしと上級国民

本稿で何度も使用しているものの、上級国民という言葉自体はわたしにとって好ましいフレーズではない。多くの人々にとっても決して耳当たりの良い言葉ではないはずだ。

自分が成功者の位置に居ないのはあたかも上級下級といった”定められた”制度の責任であり自らに落ち度が無いかのような印象を与える言葉だからだ。現実はそうではない。

(理論上は)すべての人が努力や運により成功者足り得る。本来上級なるものは存在しないのだから、上級であるか否かは重要ではない。

そう考えなければならない。そう考えてきた。

「上級国民」の存在を信じるのは責任の放棄であり現実からの逃避だ。出自を呪うことは何の意味もなく幼稚性の発露に他ならない――

そこまで分かっているにも関わらずこの場で上級国民という言葉を用いながら話を進めることになってしまった。本当に残念だ。

心が動かされた。

まずはその理由から。

以前書いた通り、わたしは関西地方から東京に移ってきたいわゆる上京民だ。東京でたまたま出会った同年代の人たちの一部の言動に違和を感じた。恐ろしかった。

こんな人たちだった。

東京生まれ、東京育ち。私立小中高→東大→官僚、弁護士といった道を辿り、彼らにとって「知り合い」はみな類属性。大学や職業にわずかな差異があるぐらいで親や兄弟姉妹も同様。

わたしもここまではなんの問題もなく受け入れられた。一方の彼らにとってのわたしはそうではなかったようだ。

上記に従うとわたしは

大阪生まれ大阪育ち。公立小中高→某国立大→医者弁護士ではない仕事。知り合い(同級生)は犯罪者からスポーツ選手までいろいろ。親や兄弟姉妹は大学を出ているかどうかも怪しい。

といったところだ。

(後に意味を為すのであらかじめ述べるが、客観的事実としてわたし自身の経歴も統計記録上少なくとも上位10%には位置している)

まず彼らにしてみると大阪(関西)に住む(住んでいた)人の存在自体が珍しいようだった。まるで「そんなところに住む人が実在するんだ」と言わんばかりの会話が繰り広げられていた。冗談めかした場面や言い方ではなく心底”感心”しているようだった。

もちろんそれだけに留まらない。親が資産家ではない、それどころか大卒かどうかすら怪しいとなるともはや「信じられない、嘘を言っている」といった反応であった。

わたしはショックだとか傷付いたとかいう感情の前に驚きに満たされて他の感情は消えてしまった。

彼らは自分の居場所が上澄みであることを知らないばかりか、世の中に自分達以外の"下"の層が存在することさえその瞬間まで意識していなかったのだ。

彼らはわたしと出会ったことで知っている世界(現実)の最下層にわたしをマッピングすることとなった。

彼らとの相対的な位置関係は正しいが、絶対的位置で言えばわたしの下にも広く世界が広がっている。この事実を主張することもできなかった。(下という言い方が好ましくないのは重々承知)

そして彼らにとって知っている世界こそが世の中のすべてであった。

これは彼らの特性ではなく一般的な話だ。われわれ自身もアフリカの最貧国で子どもたちがその日の暮らしさえままならないことは知っているし募金することもあろう。
しかしそれを現実の自分事として落とし込み、生活の一部としているか、常に思考の枠に入っているかと聞かれるとおそらくNOだと思う。

同じことだ。

彼らはもちろん「大阪」も「公立校」もその存在は知っていた。が、「アフリカ」について知っているのと同様、自分の現実としては捉えたことが無かったのだ。

わたしが驚いたのはまさにその部分だ。彼らにとっての現実に「中卒・高卒」なんてもってのほかであり、それどころか「非首都圏」や「公立校」さえも存在していない。

しかし将来、この国の法やルールを作り運用するのは他でもない彼らだ。

問題は教育に

上級国民が存在し、彼らの思考の枠には一般国民が入っていない。これはここまでで述べてきた通りだ。

なぜなら存在を知らない、または知らない"ふりをしている"からだ。繰り返しになるが前章でのエピソードはいたって真面目な場でのわたしの実体験だ。上級国民のおふざけに付き合っていたわけではない。

さて、この事実をみなさんはどう思うか。人々はどう思うか。

なんとかしなければならない。わたしはそう捉えた。

なぜなんとかしなければならないのか。一番は悔しいから。それに尽きる。ただ上級が上級であり続け、その他一般国民が一般国民であり続けるのがただ悔しいと思った。

「生まれを嘆かず努力しろ」

「配られたカードで…」

よく聞くフレーズだ。嫌いではない。

この場所で問題提起をすることこそがわたしにとって「配られたカードでできる努力」そのものなのだ。無知から脱却し上級国民と闘わねばならない。

闘うとは何か、原因はどこにあるのか。

この答えの一つが教育だと思う。

教育の質、量、受けさせ方、受け方に差がある故に上級国民、一般国民それぞれの

子どもが同等以上(以下)の経歴を獲得することがほぼ確実である

といった環境が醸成され、ゆるやかで確実な身分(立ち位置)の固定がおこなわれているのだ。

問題は教育にある。教育にしかないわけではないが教育にもある。間違いない。

教育格差

近々の統計は存在しないものの日本は長く識字率がほぼ100%と言われる。OECDトップの値だ。

しかし一方で、わたしの育った大阪の公立中学校において四則演算をこなし、一定量の文章を正しく理解し、規範に従って行動できる人がどれぐらいいただろうか。半分にも満たないだろう。

これが形式的識字率ではない実感的識字率に近い。要するに彼らの半分ぐらいは”文字は読める”が”理解できない・理解しない・理解しなくて良い”という生活を送っていた。真の識字率は50%以下だ。

地方都市の公立校なんてのはそんなものなのだ。少なくともわたしの場合はそういう環境であった。

大学に進学する人は10人に1人もいなかったし、院卒といえば当然少年院を指した。大学院の存在を理解している同級生は一人もいなかった。

ここまでを踏まえ、以降の記述においてわたしが参考にさせていただいた本は以下だ。

『教育格差』 松岡 亮二 筑摩書房

この方の研究を勝手に一部要約させていただくと、

・都市圏と非都市圏で教育へのアクセスに差がある

・親の学歴(高卒、大卒など)と受けさせる教育の中身に相関がある

・親の学歴と家庭環境(蔵書量、教育熱)に相関がある

・これらの原因の一つが日本の統計データ不足による対策不全にある

との内容であった。

最後の点以外はしごく当たり前のことですんなり納得いく方も多かろう。わたしは最後の指摘こそが本質であると思うし非常に近い考えであった。

ホンネ・タテマエ文化の本国において数値的データが大切にされないことは往々にしてある。その極みが教育の領域だ。数値を無視するどころか教育への数値的評価さえ未導入と言える。

教育の質や成果が数値化されてフィードバックされない以上、改善が見込まれないのは当然だ。

実際にそうであったとしても都会と地方で、それどころか東京とそれ以外で教育の質や量が大きく異なる、異なってきたことを数値的に把握するのは不可能なのだ。

したがって、結果的に上級国民は上級国民を再生産し、一般国民は一般国民を再生産することになる。

それしかできないという表現は不適切で、それしかできないという事実さえぼんやりとしか分からない状態なのだ。

上級国民と闘う意味

簡潔に言えば教育体系を今より数値的に把握し、教育の現状の問題点を改善することで日本国内の教育格差を小さくするような対策を打つべきだ。というのがわたしの考えのように思える。

しかしそうだろうか。疑問も残る。

教育格差を縮小し、”元一般国民”が上級国民なれる社会を築く理由は何なのだろうか。すなわち闘う意味は何なのだろうか。

上級国民が一般国民を思考の枠に入れない(知らない)のと同様、一般国民も上級国民を思考の枠に入れないではないか。なんせ彼らの、われわれの真の識字率は50%だ。

わたしとしてはこれを否定しなければならない。

上級国民が一般国民を知らないとき、知らないふりをしているとき、問題は生じない。

一般国民が上級国民を知らないとき、問題が生じる。

何せ将来この国の法やルールを作り運用するのは上級国民だからだ。

知らないうちに搾取される”かもしれない”。わたしはそんな環境は嫌だ。

一般国民のための施策をおこなえる状況を自らの手で作り出さねばならない。

上級への道を用意しろとは言わない。上級の存在を知るべく平等な教育というチャンスが与えられる環境であって欲しい。同じ努力をしたときできるだけ同じ場所に居られた方がすっきりしないだろうか。

わたしと同じことを思った人がそれを実践できるように闘う。

知らないうちに搾取されないために、認識してもらい、自身のための対策を打てる位置に就く。この目的を達成するために闘わねばならず、そのために教育格差を縮小する必要があるのだ。


まとめ

(意図的かそうでないかは置いておいて)上級国民は一般国民を認識していない。また一般国民も上級国民を、そのパワーを正しく認識していない。よって知らずに何か損をしているかもしれない。してきたかもしれない。

そういった身分制度の固定は好ましくない。

するとそれに対抗すべく闘わねばならない。一般国民は自分たちにとってより良い世の中にするために上級国民と同じ位置まで登らなければならない。認知されること、同じパワーを持つことがその目的だ。

そのハードルとなっているのが教育の格差だ。

教育へのアクセスや質、量、意識が平等に近付けば階級流動性も増すはずだ。膨大なデータの蓄積と正しい対策が不可欠ではあるが。

これが国全体の底上げになる。などという大きなことを言うのはわたしの役割ではないしそれこそデータが不足している。

ただわたしがスカッとするだけだ。

生まれという環境の恩恵を受けて無自覚に”微”上級国民に位置している彼らを一緒に驚かそうではないか。今お前と対峙しているのは一般国民 of 一般国民なんだぞと。こんな下にいっぱい人が存在するんだぞと。

上級国民と闘うために教育について一度考えよう。

以上がわたしに配られたカードの使い方だ。


結局夜の投稿になりましたね。








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