見出し画像

わたしがわたしをそだてる


子どもの頃から、元気だったことがない。
疲れていないことがない。
食欲がない。
食べると戻す。
いつでも眠い。
夜中に起きてひとり ぽろぽろ涙する。
幼稚園に行きたくない。
大きな声を出しながら走り回る園児たちを見て
「ムリ」って思った。
幼稚園は中退した。
だけど、そのあと小中高どうしよう。
毎朝起きて支度をして決められた場所で
決められたことをこなすのか。
元気な子供たちと一緒に。
「いつまでこんなこと続くの」
絶望を初めて知ったのは園児のときだった。

小学校に入学して間もなく、母がストレスの吐け口役として
私を攻撃しはじめた。
私が悪いんだと思って、とにかく母の目にとまらないようにと、
いつもびくびくするようになった。
母の機嫌を損ねたくなかった。
彼女は私を見ると「なんだその顔?情けない、気持ち悪い、汚い、
臭い、恥ずかしい、あんた見てるとイライラする 」
毎日何度でも この類の言葉を浴びせられた。
もともと食欲のない私は 母の手料理が、気持ち悪くて受け付けなくなる。
お米 豆腐 納豆 玉子 ウインナー 魚 枝豆 海苔
ちくわ チーズ  ポテチ いちご すいか が私の命を
つないでくれていた。

学校では友だちもなく、給食を残してはいけないプレッシャー
で緊張して食べることが出来ず、授業は居眠りで、
新卒の若い担任からは「給食は食べたくない。いねむりこ、
母ちゃんのごはん、そんなに美味しいか?給食そんなに不味いか?
授業は受けたくない、どんだけワガママなんだ」
とみんなの前で叱られる。何も言い返せない。
食事がのどを通らないので いつもふらふらだった。

私は三姉妹で、母は姉と妹には親の顔で接していた、
笑い声も聞こえる家庭がそこにはあった。

今の心療内科の担当医によると私は子どもの頃からうつ病と
運動系の発達障がいを発症していたようで
何もないところで転び、体育はすべて恐怖。
小学1年の授業参観が体育だったとき、見に来た母は
何もできない私を見て猛烈に腹を立てた。
鍛えなおしてやると息巻いていた。
穴があったら入りたかったと 大人になっても
言われ続けた。

当時はうつ病や発達障がいという言葉さえ
知られていなかった時代だった。
それでも特別学級はあった。

私の両親は教師だった。
自分のクラスに、私みたいな生徒がいたら
少しは理解しようと努力しただろう。
クラスの輪に入れない子にも好かれる教師だったから。

でも仕事とプライベートは別だ。
どもる私に「はっきり言え。話す気あるのか?
お前と話してると本当にイライラする」
父には つい最近までそう言われてきた。

私が精神障がい者2級であることは両親も
知っている。

親と電話で話すだけで何日も寝込む。
随分悩んだが去年から、私は電話さえ出ることをやめた。
とにかく人として関わりたくない。

私は彼らには感謝している。
一人の人間として生まれてきたのに、親という役を
ずっと続けてくれていることに。

ただ、彼らは想像力に乏しく、育児には無知で
その情報量はあまりに少なく
自分の子供に対して一人の人間としての尊重をもつ
ことなんて考えもなかっただろう。
ただ、がむしゃらだったと思う。

結婚も出産もしないという選択肢のある時代なら
母は、独身だったんじゃないかと思う。


まあ そんなこんなで 私はずっと生命力のないまま
生きてきた。
この不調をあと少しでも良くしたい。

心理カウンセラーの先生からアドバイスを受けた。
あなたがもう1人のあなたを育てて、一緒に成長していくのです。
今 自分がどうしたいのか、なんどでも問いかけてあげる。
何も答えが返ってこなくても、問いかけてあげてください。

私がわたしをそだてるんだ。
その子のことをまだよく知らない。
もっと知りたい。
会いたい。
守りたい。
がんばったねと優しく言ってあげたい。


読んでくださり、こころからありがとうございます。