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車窓と別れを告げる1時間13分

やがてこの街にも郷愁を感じるのだろうか。

大学へ続く道とは少し外れた路線上にあるこの駅から帰路につく。
降りたことのない見覚えのある風景が別角度で映し出される。
ああ、私はこの道を生きてきたのだな。

たった20年ほどの短い人生で、世界にとってはわずかな時でしかない大学時代の帰路を愛おしく思った。

春という言葉に似合わぬ冷たい空気が懐かしい。朝陽にさえ励まされた、緊張と期待に満ちたあの春を羨ましく思う。
何故私は陽射しを憂い、項垂れていってしまったのか。蓄積された疲労、不安、自己犠牲。操縦できなかった自分の感情が湿度として滲み出した。

むさ苦しさと人工的な冷気が作る温度差のように、感情を掻き乱し、傷つけたこともあった。豊かな自然に魅了されるように愛を賛美したことも、乾燥した空気のように不信感と孤独の絶望を味わったことも、全部ぜんぶ私とこの道にあったのだ。

授業、サークル、テスト。愉しくて、うざったくて、離れたくて、居場所にしたいあの感覚が車窓越しに浮かぶ。

がらんどうのボックス席に座って、後ろ向きに進む電車に揺られながら私は記憶と対話した。
蘇っては離れていく私たち。


わずか4年間の大学生活の、一年以上続いた自粛期間。変わらぬ風景が重ねた孤独によって埋められていたものが、ようやく掘り起こされたみたいなのだ。

苦味のある駅ビル。
もう会わなくなった先輩。今頃元気にしているだろうか。二度と会いたくないと憎んだはずなのに、過ぎ去る記憶の一部だと思うと、何故か名残惜しく感じる。人生として繋がっていくこの道を大切にしたい。そんなエゴのせいだろうか。

段々と車窓は表情を変える。
見知った町ばかりが車窓と脳裏にこべりつく。
同じ速度で、いや、むしろ速く進む田舎道が重苦しくしがみついてくる。
ここにはもう、愛おしさなどない。
いくら離れても還ってくる場所なのだから。


郷愁とはどれほど見知った町への愛おしさから生まれるものなのだろうか。
僅かでも、たとえそれが一回きりの訪れだとしても、私の一部が離れて、忘れてしまうことへの恐怖が駆り立てるときに生まれるもの。私を地続きの存在であろうとさせる愛おしさという感情。それこそが、郷愁のファクターなのではないだろうか。

人が生み出した言葉に異論唱えながら、私の感覚とは何かと、言葉にできないもどかしさを記すのであった。

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