【長編小説】陽炎、稲妻、月の影 #26
第4話 天秤に掛けるもの――(7)
俺が件の中庭に到着する頃には、既に四限目が始まっていた。
生徒の姿はなく、静まり返った中庭の隅に、サトウさんたちの言っていた人影の存在を認めた。二人の言うように、輪郭が僅かにぼやけている感じはするが、表情がわからないほどではない。もしかしたら、幽霊と人間では、視えているものが少し異なるのだろうか。
人影の正体は、三十代半ばほどの男性だった。
仕事中だったのだろうか、スーツを身に纏っている彼は、呆然と、或いは虚空を見つめ、立ち尽くしていた。
サトウさんたちの言うような寒気は、俺には感じられない。てっきり悪霊化一歩手前かと思ったけれど、立っているだけで害はなさそうである。
アサカゲさんや先生でさえ感知できない霊というのは、どんなものかと思ったが、あんな端っこに居ては、感知もなにもない。恐らくは、偶然にも結界と結界の隙間に現れてしまい、誰にも気づかれなかったのだ。
「こんにちは」
だから俺は、いつも通り屋上へ案内すべく声をかけた。
俺に声をかけられ、そこで初めて意識がはっきりしたように、男性はびくりと肩を震わせた。ゆっくりと俺に焦点を合わせ、それから、周囲をぐるりと見回す。
「こ、ここは……高校? あれ、僕はもう卒業したはず……」
「一旦落ち着こう。君は、ここの卒業生?」
なんだか不穏な気配を感じて、俺は彼の独り言に割り込んだ。過度な緊張感を与えないよう、さり気なく記憶の整理を促す。
「卒業生……。僕は……そうだ、この高校を、卒業した。もう何年も前に。卒業式中に、幽霊が卒業証書を、吹き飛ばして、騒ぎになったっけ……。そのあと、大学に行って……就活して、卒業して……。地元に戻って、来て……仕事……、そうだ、さっきまで僕は、仕事をしていたんだ。火災報知器が鳴って……逃げようとしたけど、煙を吸い過ぎて、動けなくなって……それで、僕は……」
男性はぶつぶつと呟きながら自身の半生を振り返っていたが、途中から不穏な気配が増していくのがわかった。嫌な予感がする。背中のほうから頭にかけて、違和感のようなものがせり上がってくる。これが、サトウさんたちの言うところの寒気なのだろうか。
いや、違う。これは寒気どころの話じゃない。
人はこの感覚こそ、悪寒と呼ぶんじゃないか?
「お、落ち着こう。ほら、大丈夫だから――」
まずい。
ほとんど直感的にそう判断した俺は、男性を宥めにかかった。
その波立つ感情を沈静化させなければ。
「なんだよ、それ……。落ち着けるわけ、ないじゃないか……。僕は、僕は――」
次の瞬間、男性の身体を、黒い靄のようなものが覆う。
俺は咄嗟に一歩下がったが、既に手遅れだった。
「――死んじまったんだぞ!!」
身を裂くような咆哮と同時。
黒い靄が目前に迫り、身体に強い力が加わる感覚に襲われる。
中庭に面した窓が、びりびりと震える。
「うう……けほっ……」
気づけば俺は、中庭の端から端へと吹き飛ばされていた。痛みはない。呼吸が乱れたのは、あの黒い靄の所為だ。正体こそ不明だけれど、確実に今の俺にとって悪影響を与えるものであることは間違いない。あれに近づいては駄目だ。
しかしながら、あれを正面から喰らってよく吹き飛ばされただけで済んだものだ。
そんなことを考えながら体勢を立て直そうとしていると、手元から黒煙が立ち上っているのに気づいた。それは男性の放つ靄とは異なり、より現実的な、物質が燃焼したことによるものだ。
「あっ、組紐が……!」
見れば、左手首に着けていた、ハギノモリ先生謹製の組紐が黒焦げになっていた。恐らくは、これが身代わりになってくれたのだろう。そうでなければ今頃、俺という意識は即刻霧散していたはずだ。
怖い。
けれど、簡単に逃げ出せるような雰囲気でもない。下手に動けば、もう一度あの靄によって攻撃されてしまうだろう。もう一撃だけなら、アサカゲさんから貰ったリストバンドを盾にして防げるかもしれない。けれどそれが尽きたら、今度こそ俺は消えてなくなる。せめて、自爆機能だけでも残っていてくれたら良かったのに、と、消し炭になってしまった組紐を見遣り、歯軋りする。とにかく今は、生徒に被害が及ばないよう、慎重に動かなければならない。
「大丈夫……大丈夫……」
錯乱状態の男性を落ち着かせるように、或いは、俺自身を鼓舞するように、独りごちる。
すると、まるでその声に呼応したかのように、中庭に一陣の風が吹き込んだ。だがそれは、花壇の花々を揺らすだけで、全く意味を成さない。
男性に気取られないように、ちらりと自身の右手首を見遣る。
この状況は、間違いなくアサカゲさんに連絡を入れるべきだろう。先生から貰った組紐が焼き切れてしまった以上、今頼れるのはアサカゲさんしかいない。
しかし、どうしても躊躇ってしまう。
今は授業中だ。せっかく約束を守って授業に出ているアサカゲさんを、俺が呼んでしまって本当に良いのだろうか。テスト前の大事な時期だというのに――と、そこまで考えて、俺は自分の思考を否定する。
――勝手に消えんじゃねえぞ。
脳裏に、いつかの日のアサカゲさんの声が蘇る。
そうだ、そうだった。
俺とあの子は、そういう約束をしているんだった。
それを守る為なら、躊躇う理由はどこにもない。
「――アサカゲさん、聞いて」
俺の声に呼応し、リストバンドが淡く光る。
それと同時に、男性が俺の声に反応し、ぎょろりとこちらを向いた。悠長に話している時間はない。
『ろむ、お前まさか、さっきの瘴気に巻き込まれたんじゃねえだろうな?!』
アサカゲさんは既に異常を検知し、教室を飛び出して移動している最中なのか、呼吸を荒らげているようだ。
「そのまさかで、正直、逃げられる気がしないんだ。裏を返せば、中庭に引きつけておくことくらいはできるけど、あんまり長時間は粘れそうにない。だから――」
だから、マジで早く助けに来て。
そう懇願したかったのだが、無慈悲にも俺の言葉は中断されてしまった。
黒い靄が、再び攻撃を仕掛けてきたのだ。
俺と靄の間に、障壁のようなものが形成され、靄の攻撃を弾いたのも束の間。
リストバンドは、組紐と同じように焼け焦げてしまった。アサカゲさんが施してくれた防衛機能も、これでなくなってしまった。
靄が、これ以上俺に隙を与えまいとするように、次々と迫ってくる。
それらをどうにか避けて、避けて、避け続けながら、俺は必死に考える。
どうやって、助けが来るまで命を繋ぐか。
どうやって、生徒に被害が出ないように立ち回るべきか。
ああ、だけど、こんなこと、俺自身に対抗し得る力さえあれば、考えずに済んだだろうに。
あまりにも非力で、無力で。
そんな自分が、心の底から、嫌になる。
「――っ、が、あ」
刹那、それまでとは段違いの速さで伸びてきた靄が、俺の胴体を掴み、勢いよく地面に叩きつけた。そして、一度捕まえてしまえばこちらのものだと言わんばかりに、靄は嵩を増して俺を覆っていく。
次第に、身体に力が入らなくなっていく。
藻掻けない。
足掻けない。
このままでは、俺は靄の一部に取り込まれてしまう。
なくなってしまう。
消えてしまう。
怖い、と思うのと同時に、とうの昔に覚悟は決まっていたじゃないか、とも思う。
昔、昔、そのまた昔から。
――じゃあ、指切りげんまん! 約束したからね? 忘れちゃ駄目だよ?
――……わかった。
走馬灯のように流れ込んできたその会話も、今の俺には理解できない。
俺は誰かと約束していたんだっけ。
どんな約束をしたんだっけ。
わからない。
もう、なにも、ない。
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