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【長編小説】暮れなずむ秋と孤独な狛犬の歌 #20

10月5日(土)――(5)

「さて。お腹も満たされたことだし、練習を始めるとしようか」
「そうだな」
 多めに作ってきたつもりの弁当を二人で難なくぺろりと平らげ、温かいお茶を飲んで休憩することしばらく。
 少女の言葉を受けて、僕は社殿から少し歩いて開けた場所に移動する。すると暖かい日差しが僕を出迎え、思わず空を見上げた。そこには雲ひとつない青空が広がっていて、僕は慌てて視線を地面まで急降下させる。やっぱりまだ青空は苦手だ。
「アキ? なにか居たのか?」
「いや、なんでもない」
 首を横に振って、気分を切り替える。
 そんな僕を見て、少女もそれ以上なにか言うこともなく、ひょいと立ち上がった。
「それでは、まずは腹式呼吸からだ」
 少女は、軽い足取りで僕の正面へ回った。
「実は昨日、帰ってから少し練習したんだ」
「おお、偉いぞアキ。さぞ上達しているのだろうな」
「無駄にハードルを上げんじゃねえよ……」
「えへへ、冗談だ」
 そう言って、少女は微笑む。
「焦る必要はない。今日は時間もたっぷりあるからな!」
「うん」
 それから、少女指導の下、複式呼吸の練習をした。
 呼吸を意識して、吸って吐いてを繰り返す。
 昨日の今日ですぐに上達はできなかったけれど、それでも昨日よりは幾分できたような気がする。これは一重に少女の上手な教えかたによるところが大きい。学校で習うだけでは、こうはいかなかっただろう。
 腹式呼吸をすると息がしやすくなるというのは、昨日も思ったことだったけれど。どうやら息がしやすくなったのは、少女も同じであったらしい。最も、少女の場合は、お面が口元を覆わなくなったからという、理由は僕とは全くの別物なのだけれども。
 できるだけ少女の顔の痣に視線を遣らないように気をつけながら、僕はそんなことを考えた。
「なかなかに上達してきているぞ、アキ」
「本当か?」
「もちろんだ!」
 歯を見せて、少女は笑う。
「ようしアキ、次は発声練習だ」
「わかった」
 神妙に頷いた僕に、少女は手をぷらぷらと振りながら、
「そう身構えることはないぞ」
と言う。
「発声練習というと大仰に聞こえるかもしれないが、より声を出しやすくするための練習だ。喉を開く、と言うとわかりやすいだろうか?」
「んん……?」
 首を傾げる僕に、少女は、つまりだな、と続ける。
「これをやると、喉に負担をかけずに歌うことができるようになるのだ。詳しい理論は学校で音楽の先生が説明してくれるだろうから、ここでは割愛するぞ。喉からではなく、お腹から声を出すことをイメージして欲しい」
「具体的にはどうやるんだ?」
「簡単だ。リラックスした状態で、同じ音程、同じ調子で息の続く限り『アー』と声を出す」
「それだけ?」
「うむ。だが、これをやるとやらないとでは、歌うときの声の調子が全く違うのだ」
「コマがそう言うんなら、間違いないんだろうな」
「うむ! それではやってみよう。ワタシがお手本を見せるから、それに続いてくれ」
「わかった」
 腹式呼吸のときと同じように、足を肩幅に開いて、一度肩をぐっと上げてから下ろし、基本の姿勢を取る。そうして右手を腹部に当てると、少女は『アー』と声を発した。高過ぎもせず、低過ぎもせず。大きくもなければ、小さくもない。そんな声の出しかただ。
 喉を開く練習。
 喉からではなく、腹から声を出すイメージ。
 言われたことを思い返しながら、少女に続いて僕も発声した。
 驚くべきは、僕の息が続かずに離脱してからも、少女の声が続いていたことである。僕よりも先に始めて、僕よりも息が続いているだなんて。この少女の肺活量は、とんでもなく大容量であるらしい。
「……コマ、すごいな」
 少女の発声が終わるのを待ってから、僕は端的な感想を述べた。肺活量もそうだが、最初から最後まで同じ調子で声を出せることもすごい。僕は終わり際、声が震えてしまっていたというのに。
「えへへ。アキも練習すれば、これくらいできるようになるぞ」
「そういうものか?」
「そういうものなのだ」
 力強く頷いて、少女は続ける。
「アキはきっと上手になる。ワタシが保証する」
「そう言ってもらえると心強いな」
「あっ、その言いかた、信じていないな? 本当に本当なのだぞ?」
「はいはい、わかってるって」
「はいは一回だぞ、アキ」
「はーい」
 少女は気休めでそんなことを言う性格ではない。だから、言葉の通りなのだろう。その信頼関係がくすぐったくて、僕は冗談交じりにそう返すことしかできなかった。
「この発声練習を、もう二回やるぞ。そうしたら、歌の練習に入ろう」
「うん」
 腹式呼吸と発声練習を終える頃には、身体がすっかり温まっていた。歌を歌うだけだからと甘く捉えていた所為なのだが、一日中外に居ることになるのだからと、着込んできたのが見事に裏目に出てしまった。
「コマ、ちょっと待ってて」
 一言かけてから、僕は上着を脱いで、社殿にまとめておいた他の荷物と一緒に置く。
「あ。コマ、喉、乾いてないか?」
 荷物の近くまで来たついでに、僕はお茶の入っている水筒を手に取った。
「少しだけ」
 言いながら、少女はとことことこちらに歩いてきた。
 水筒を開け、コップにお茶を注いで少女に渡す。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
 コップを受け取ると、少女はごくごくと飲み干した。頬と口元の痣に目が行かないように、僕は意識的に少女から目を逸らし、自分のぶんのお茶を注いで飲んだ。
「ふはあ、生き返った!」
 ありがとう、と言いながら、少女は両手でコップを僕に返す。
「それではアキ、いよいよ歌の練習に入るぞ!」
「よっしゃ」
 少女からコップを受け取り、僕は頷いて見せた。
 身体は十二分に温まっている。今なら気持ちよく声を出せそうだ。
「今日はまず、音程を覚えることに集中しよう」
「わかった」
 水筒とコップをリュックサックに仕舞って、大きく背伸びをする。すると、否が応でも視界に空が目に入った。昼前まで真っ青だった空には、いつの間にか雲が伸びてきている。上空何千メートルを揺蕩うあれらの雲は、少し目を離した隙にどこかへ流れて消えていく。また言いようのない無力感に襲われそうになって、僕は境内に視線を落とした。
 少し冷たい風が、木々の間を抜けて吹き込んでくる。
 もう秋も終わりに近づいてきているのだ。
 自然は人間の感情など置き去りにして、季節を移ろわせていく。僕はこれに、いつになったら追いつくことができるのだろうか。そう気持ちが焦る日が多かったけれど、今は不思議と、少しだけ追いつけたような気持ちでいる。
「いいかアキ、歌い出しはこうだ」
 すっかり準備万端でいた少女は、軽く咳払いをしてから、お手本を歌い始めた。
 その透き通るような歌声は、美しく秋の神社に響き渡る。

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