【長編小説】暮れなずむ秋と孤独な狛犬の歌 #17
10月5日(土)――(2)
蛇口を捻り、冷たい水で顔を洗っていたら、玄関のチャイムが鳴る音が聞こえた。
この村において、朝早くから来客があるのは珍しいことではない。土曜日だろうが日曜日だろうが、その辺りはあまり関係ない。早いときには七時に近所の人が来たこともあって、母さんはこの村に嫁いできたばかりの頃、びっくりしたと言っていたっけ。
しかしながら、生まれたときからこの村に住んでいる僕にとっては、これが当たり前の日常である。畑で採れた野菜のおすそわけか、この時期なら、お米かもしれない。
そんなことを考えながら身支度を整え、台所に戻る。
その頃には来客も帰ったようで、ばあちゃんは台所に戻って来ていた。
「さっきの、誰だったの?」
改めて手を洗いながら、ばあちゃんに尋ねた。
「木内さんとこの倅」
言いながら、ばあちゃんは冷蔵庫を指差す。
「会社の行事だかでジュースをいっぺごともらったすけ、おすそわけだと」
冷蔵庫の中を覗いてみると、小さいパックのジュースが十本ほど入っていた。オレンジやぶどうなどのフルーツジュースのようである。
「少しもらって行っても良い?」
「もちろん。好きなだけ持っていきなせ」
「やった」
小さくガッツポーズを決める。
ストローを刺して飲むタイプのものだから、これなら少女も飲みやすいはずだ。
「だば、弁当のおかずはほとんどできたすけ、美秋の言ってたお菓子作ろかね。美秋も一緒にやらんろ?」
「うん」
作るのは、スイートポテト。
家では毎年作って食べていたけれど、僕はもっぱら食べるの専門だった。こうして家で作るのは、今日が初めてである。
うちの畑で採れたさつまいもの皮を剥き、適当な大きさに切り。水に晒してあくを抜いたあとは電子レンジに放り込んで、さつまいもが柔らかくなるまで加熱する。加熱して甘いにおいを漂わせるさつまいもをレンジから取り出したら、温かいうちに潰し、砂糖とバターと卵黄、そして生クリームを入れて、柔らかくなるまで混ぜていく。
あの少女は、どれくらいの甘さが好きなんだろう。コーヒー牛乳をごくごくと飲んでいたあたり、甘党かもしれない。
そんなことを考えながら、材料を混ぜる。
それが終わったら、味見したい衝動を堪えて一口大に成型していく。少女の口元は見たことがないけど、手軽に食べられる大きさであるに越したことはない。
最後に卵黄を塗って、トースターで焼いたら完成だ。
「できた……!」
見た目は控えめに言っても良いとは言えない。かなり歪になってしまった。
「ばあちゃん、味見してもらって良い?」
味については、ばあちゃん監修なのだから問題はないはずだ。しかし、如何せん初めて作ったものだから、僕には自信がなかった。
ばあちゃんはその中で形が一番歪なものを選ぶと、ひょいと口に入れる。
「……どう?」
「うんめ」
笑みを深めたばあちゃんに、僕は明らかに安堵する。
「良かった」
「美秋も食べてみなせ」
「いや、僕は良いよ。あとで友達と一緒に食べたいから」
ばあちゃんからお墨付きをもらえたなら、それで良い。
「だから、おにぎり作る」
「んだの」
おにぎりの具は、梅干し、鮭、おかかこんぶ、ツナマヨの四種類。
少女がどれだけ食べるのか予想ができないから、小さめのおにぎりを各種二個ずつ作っていくという作戦である。
僕がおにぎりを握るのを眺めながら、ばあちゃんがふと思い出したように、
「せば」
と言う。
「さっき木内さんとこの倅が言ってたんだども、行方不明の子が出たらっしぇの」
「行方不明?」
こんな田舎の村で行方不明者とは珍しい。
「んだ。木内さんとこの倅が言うには、今年の春先にこっちに越してきた、古賀ってとこの子らて。美秋と同じ中学の女の子らしゃんだが、なんか聞いてねっか?」
「……なにも、聞いてない」
「そっけ。まあ警察も探し始めてるみたいだすけ、大丈夫とは思わんだがの」
手が止まらないように気をつけながら、僕は静かに唾を飲み込む。
行方不明の子。
今年の春先に越してきた一家。
僕と同じ中学に通う、女の子。
まさか。
「……その子、いつぐらいから居なくなったの?」
「はてなあ、今週の頭ぐれっつってたかの」
「……そうなんだ」
ぐるぐると、頭が勝手に思考を進めようとする。
点在していただけの事実が、繋がろうとする。
いや、今考えるのは駄目だ。
僕は頭を小さく横に振って、構築されつつあった思考を振り落とす。
僕が今、この話題について関心のある素振りを見せてたら、ばあちゃんが話を広げていくだろう。本人の知らないところで根も葉もない噂をされることがどれほどのものか、僕は痛いくらいに知っている。だから、これ以上この話題をここで広げたくなかった。
「……よし、完成」
おにぎりを作り終え、冷ましている間に一度部屋へ戻り、荷物をまとめることにする。
リュックサックに、楽譜と筆記用具を入れる。それと、昨日の晩に箪笥から引っ張り出してきたものを、少し迷ったけれど、いくつか入れていくことにした。
保冷バックを片手に台所へ戻り、弁当とジュースを詰める頃には、時計の針は十時を指そうとしていた。
「じゃあ、いってきます」
玄関まで見送りに来てくれたばあちゃんに、僕は言った。
「ん。あんまり遅くならねでな」
「うん」
外に出ると、冷たい空気が僕を出迎えた。昨日に増して冷え込んでいる。自転車を漕ぎ出せば、それはより一層冷たく感じた。
「……」
家から神社までは、自転車で二十分ほど。
その道中、僕は改めて考える。
古賀という家の子が行方不明になったのが、今週の頭。
そして、僕が少女と出会ったのは、今週の水曜日だった。
その子と自称狛犬の少女が同一人物であっても、時系列に矛盾は生じない。
行方不明という言葉が与える印象は大きいはずなのだが、僕はばあちゃんの言いかたに、あまり深刻さを感じられなかった。週末になってようやく噂が出回るようになったのであれば、事件性はないと考えても良いのではないだろうか。なにせこの田舎では、事件の類は嫌というほど早く出回る。
となると。
その子は第三者によって行方がわからなくなったのではなく。
自主的に姿を消したと考えるのが妥当だろう。
「……家出、なのかな」
社殿に備蓄していた救急用品やお面が、家出してきたが故なのだとしたら辻褄が合う。
あんな山の中に居るのなら、傷は絶えないだろうし。
少しでも身元を隠すために、お面は必要だったのかもしれない
同じ中学の一年生なのに、少女に見覚えがないことも。
交通事故のことで悪目立ちしている僕を、知らないことだって。
春先にこの村に越してきたのであれば、当たり前とも言える。
いや、でも。
条件は揃っているが、単なる偶然という可能性だって十二分に考えられる。なんでも結びつけて考えるのは良くない。
わからない。
その言葉で、僕はぐるぐると巡らせていた思考を遮断した。
勝手な憶測であれこれ推測するような真似はしたくない。ましてや、当事者の感情を推し量るなんて、絶対にしてはいけないことだ。
今の僕にわかることは、たったひとつだけ。
今頃は神社で、少女がお腹を空かせて待っているであろうことくらいだった。
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