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【短編小説】極端に影の薄い「私」が、並行世界から来た人間と、しがない喫茶店のマスターに救われる話

『透明人間はスパゲッティで孤独を癒やす』


 物心がつく頃には、私は透明人間になっていた。
 否、透明人間と言うと流石に語弊がある。
 正確には、極端に影が薄い人間になっていた、だ。
 一人で飲食店に行けば入店したことすら気づかれず席に案内されないことに始まり、やっとの思いで注文ができても、注文したものが出てくるまで通常の三倍は時間がかかる。
 学校生活においては、とにかく出席しているという証明をするのが難しかった。なにもせずにいると、席に座っているにも関わらず、居ないことにされて欠席扱いとなることも多々あった。
 さらに、血の繋がった家族でさえ、時折私が見えなくなるのだ。父と母と兄と私で食卓を囲んでいても、いつの間にか私が蚊帳の外にされてしまう。さすがに存在そのものから無視されていないだけマシなのだろうが、疎外感は否めない。
 だけれどこれは、決して私に対して悪意や他意があるわけではない。
 ただただ純粋に、私という人間がそこに居ることに気づかないだけなのだ。
 そんなことがあるものか、と突っ込みを入れたくなる気持ちはわかるが、これは私の住む町のカミサマみたいなひとによるお墨付きだ。
 曰く。
 御主のそれは、そういう特性だ。それは恒久的なものだから生活に苦労はあるだろうが、生きていけないわけではないから、過度に心配するものでもない――だそうだ。
 この町には、私以外にも特異な特性を持つ人が多く居る。たとえば、手順さえきちんと踏めば町のカミサマと話ができることもそうだし。それ以外にも、うちの裏手に住んでいるお兄さんは、声帯模写という言葉で片づけるには惜しいくらいに七色の声を自在に操ることができたりする。
 この町では、いろんな人が居て当たり前。
 だから、特性と言われてしまえば、私はそれを受け入れるしかなかった。
 受け入れて、いろんなことを諦めて、生きていくしかなかった。
 不幸中の幸いだったのは、現代社会に生まれたということだろうか。データ上、インターネット上であれば、私の影の薄さは影響しない。あくまで私が透明人間になるのは、対面時に限られるのだ。だから私の話し相手はいつも画面の向こうに居る顔も知らない誰かで、文字によるやりとりが主だった。それでも、誰かと会話ができるのであれば、贅沢は言わなかった。
 大学を卒業後、私は在宅の仕事に就いた。
 社会人生活は、私のこれまでの人生で一番快適なものとなった。データ上でのやりとりであれば、職場は私に仕事を振ってくれるし、私はそれに応えられる。学生の頃からは信じられないくらい、日常のやりとりがスムーズになったのだ。仕事をしていれば私の存在はきちんとそこに在って、私は仕事にのめり込んでいった。
 私にはメリットしかないと思っていた在宅勤務だが、残念ながらほどなくして、決定的なデメリットをつきつけられることとなる。
 それは、常に家に居ることにより、仕事と生活の線引が曖昧になってしまうことだ。一人暮らしであれば、尚のことである。
 私は仕事をすればするほど自分の存在を認められることに高揚感を覚え、それに依存し。
 その結果、入社から一年で身体を壊してしまった。
 睡眠と食事を疎かにして倒れ、しばらく入院することとなったのは、完全に自業自得である。
 入院中もこの影の薄さは遺憾なく発揮され、看護師さんたちからは脱走癖のある患者と思われていたようだった。一度自分の身体の状況を把握してからは、ふらふらで歩くことすらままならないというのに、とんだ風評被害である。
 看護師さんたちと一進一退でコミュニケーションを取り、どうにか信頼関係を築き上げて退院できたと安堵したのも束の間。
 今度は上司から、在宅から出勤に切り替えてはどうかと打診されてしまった。
 どうにか在宅勤務を続けさせてもらえるように交渉しようとも思ったが、諦めた。私の職場が町内にあれば、まだ交渉の余地はあったのだろうけれど。透目町すきめちょうの外では、『透目町での当たり前』は通用しないことのほうが多い。説得材料に欠ける状況では、私は上司の言葉に頷くほかなかった。
 そうして、夏の終わりが近づく九月末。
 いよいよ明日から勤務再開――同時に出勤日となるのだけれど。
 兎にも角にも、気が重たかった。
 憂鬱で仕方がなかった。
 家の中に居ても息が詰まる一方で、私は血肉を求めるゾンビのようにふらふらと外に出た。外に出たところで、なにかが変わるわけでもない。むしろ、一度外に出れば、仮に私がどれだけ顔面蒼白であろうと、道行く人々に気づきもされない。それが余計に明日を嫌いにさせ、背中に重くのしかかるだろう。それでも私は外に出た。ゾンビでこそないが、それこそ、なにかを求めるように。なにかに惹きつけられたように。
 散歩は昔から苦手だった。
 目的地へ向かう移動手段としての徒歩ではなく、徒歩での移動すること自体を目的としていることが、私の中ではどうにもちぐはぐで、いつまで経っても消化不良を起こすからだ。生真面目に散歩の仕方を調べてみたこともあるが、結局私の中ですとんと腑に落ちるものは見つからなかった。そもそもの話、外出嫌いに散歩は向いていないのだ。
 外出するということは、多かれ少なかれ、他人との関わりが発生する。普通なら、対面すればお互いを認識してスムーズに会話ができるのに、私にはその『普通』ができない。他人と関わる度に、疎外感と孤独感、疲労感の三重苦を味わうのだ。
 ふらふらと、歩みを進める。
 目的はない。
 強いて言えば、明日が来ないように逃げ続けているのかもしれない。
 逃げて、逃げて、逃げて、それでなにが変わるわけでもない。どうしたって私は一人では生きていけない。他人と関わって生きていくしかないのだ。どうしても嫌になったら、山奥に籠もって自給自足の生活をするしかないだろうが、私にそれができる気は全くしない……いや、思考が暗くなり過ぎてしまった。
 私はふと空を見上げ、暗い気持ちを排出するように息を吐いた。
 目的もなく外を出歩いていたが、いつの間にか辺りはすっかり暗くなっていた。いや、家を出たときには既に日はすっかり沈んでいたかもしれない。どうやら意図せず、目的もなく徒歩で移動する散歩という行為ができてしまっていたらしい。これなら案外、明日からの仕事もどうにかなるのでは――と半ば強引に、自分にとって都合の良い方向に思考を持っていこうとしたが、それは失敗に終わる。なにせ、判断材料となるのは、私のこれまでの人生二十三年と少しの経験だ。これまで、どれだけ人に気づかれず、無視され続けてきたのかを考えれば、上手くいくなんて到底考えられるはずもない。
 逃げてしまいたい、という社会人としては非常識な考えが、頭の中を徘徊する。こんなことで逃げ出していては、先が思いやられる。影が薄いからってなんだ、他人から気づかれにくいからってなんだ。それ以外は普通な癖して、特別ぶるなんて自意識過剰もいいところだ。
 私はその場にしゃがみ込んで、もう一度、今度は大きく息を吐いた。
 すると、なんだか頭がくらくらしてきた。酸欠ではないはずなんだけれど。
 世間の皆々様が帰宅する時間帯はとうに過ぎているのか、辺りはとても静かだ。ここが住宅地の外れであることも相まって、余計に静かに感じる。
 くらくら、ふらふら、ぐらぐら。
 だけど、この世界が回るような感覚は、直近で味わったような気もする。そうだ、確か仕事用のパソコンを前にしたときに――
「……あの、大丈夫ですか?」
 と。
 すぐ近くから男性の声がして、私は反射的に顔を上げた。
 するとそこには、ミドルエプロンをした、見るからに喫茶店員であろうと思われる二十代後半か三十代前半ほどの男性が、眉根を下げて心配そうにこちらを見ていた。
 近くに体調の優れない人でも居るのだろうか、と私は周囲を見回す。しかし、周りには私の他には誰も居ない。
「いや、あの、貴女のことですよ……?」
 男性は右手をすいっとこちらに向けて、そう言った。
「……私が、見えるんですか?」
 咄嗟にそんな言葉を口にしてから、今のは言葉を間違えた、と後悔した。
「見えますけど……え? なに、もしかして幽霊?! でも足は有りますよね?!」
 案の定、男性は目を白黒させてしまっている。
「あ、違くて、私は幽霊じゃなくて透明人間で……いや、それも本当は違うんですけど……」
 伝えるべき言葉が頭の中でまとまっていないまま衝動に任せて口を開いてしまったものだから、余計に混乱させかねないことしか言えなかった。
 どうにかして状況を正確に伝え、この人に何故私に気づくことができたのかを訊いてみたいのだけれど、生憎と、他人から無視される状態が基本だった私にとって、他人から話しかけられて会話が始まるなんていうのは、ほとんど初めての経験だった。
 端的に言うと、動揺し、緊張していた。
 思考が上手くまとまらない。
「よくわからないけど、貴女は、生きてる人間ではあるんですよね? それなら……」
 男性は頭を掻きながら、状況をまとめようとする。
「ちょっと遅い時間ではありますけど、ウチで夕飯を食べていきませんか? 空腹や水分不足で行き倒れてたのなら、とにかくなにか口にしないとですし。それに、貴女が言う透明人間っていうのも気になるから、話を聞いてみたいし」
 一度食事の話を持ち出されると、私の脳は途端に空腹を知覚した。
「いやあの、でも、その、私、今お金もなにも持っていないので……」
 男性と話をしてみたいのは、私も同じだ。
 しかしそこまでご厚意に甘えさせてもらって良いものか、という葛藤もある。だが、そんな逡巡を打ち消さんばかりに腹の虫が鳴ってしまえば、その先になにを言っても説得力に欠けてしまい、私は押し黙るほかなかった。
「あはは、お金なんて取りませんよ。俺、そこの喫茶店の店員で、夕飯はそこのまかないなんです」
 言いながら男性が指さしたのは、数寄屋門すきやもんを構えた立派な一軒家だった。そういえば、何年か前に両親から、町内に民家を改装した喫茶店ができたという話を聞いた気がする。
「俺、二木ふたつぎ充紀みつきって言います」
「あ、えと、暮縞くらしま昏葉くれはです」
 互いに名前を名乗るだけの簡単な自己紹介をし、男性――二木さんの案内で、彼の働く喫茶店へ向かう。そうはいっても、店先で蹲っていた私を見つけられる程度の距離なのだから、あっという間に到着した。どうやら二木さんは、表に出していた喫茶店の看板を仕舞いにきたところで私を発見したらしく、途中でその看板を回収して喫茶店の中へと入っていき、私もそれに続く。
 玄関で靴を脱ぎ、二木さんに連れられ入った部屋は、恐らくは喫茶店として使っているスペースだった。何部屋かを繋げて一部屋としているらしい畳の部屋には、椅子の客席と座布団の客席とがあり、幅広い年代が過ごしやすいように作られた空間であることがわかる。
「表を閉めてくるだけなのに、やけに時間がかかったな、充紀君。なにか拾いでもしてきたのか?」
 カウンター席を挟んだ厨房から、淡々とした男性の声がした。
 見れば、二木さんと似た顔立ちで、年頃も彼と近そうな男性が、まかないを作っている最中だった。兄弟か従兄弟だろうか。しかし二人は同じような雰囲気でありながら、絶妙に正反対な感じがする。
 二木さんは、犬に例えるとシベリアンハスキー――クールで格好良い外見だけど、その実常ににこにことしていて人懐っこい――のような印象なのに対して。
 厨房に居る男性は、同じく犬に例えるのならジャーマンシェパード――精悍な顔つきの割に柔和な雰囲気だが、他人に一切隙を見せなさそう――のような印象を受けた。
「拾ったわけじゃないんだけど……、あのさひさし君、夕飯をもう一人前追加できる? 今日はスパゲッティって言ってたから、できるよね?」
「それは問題ないが、犬猫に人間の食べ物は毒だぞ?」
 言いながら、久君と呼ばれた男性は手を止めて、すっと顔を上げる。
きっと、二木さんがどんな動物を拾ってきたのかを確認しようとしたのだろう。しかし案の定、彼の目に私の姿は映っていないらしく、不可解だと言わんばかりに首を傾げる。
「犬猫じゃないのか? 鳥か? まさか、馬でも外に居るのか?」
「え? ここに居るじゃん」
 二木さんはそう言って私を見た。
 が、私はそれに、首を横に振って否定する。
「これが私に対しての普通の反応です。私、本当に影が薄くて、他人から認識されにくいんですよ」
「それで透明人間なんて言ったのか……」
 独りごつようにそう言って、二木さんはじっと私を見る。他人と目が合うなんて、家族でもほとんどなくて、私の体温は緊張で急上昇してしまう。
「暮縞さん、ちょっとだけ肩に触れても良いですか?」
「え? はい?」
 脈絡のない提案をしてきた二木さんに、私は咄嗟にそんな言葉にもならない声しか出せなかった。それはどちらかと言えば承諾ではなく、ほとんど反射で聞き返した『はい』だったが、二木さんは前者で捉えたらしく、気がつけばその指先は、私の肩に優しく触れていた。
「久君、俺が連れて来たの、この人なんだけど。これなら見える?」
「……見える」
 男性は大仰に表情を崩すことこそなかったが、その驚きを飲み込むように、ごくりと喉を鳴らした。彼にしてみれば、目の前に突然人間が一人現れたように見えたのだろう。
「それじゃあ、これならどう?」
 言いながら、二木さんは私の肩から手を離した。
「見えたままだ。なんだそれ、一度認識したら視認可能になる仕組みなのか?」
「詳細は俺もまだわからないけど。ウチの前の道路で蹲ってたから、夕飯に誘ったんだ」
「体調が悪いのなら、病院が先じゃないか?」
 男性からのごもっともなご意見に、私は蚊の鳴くような声で、
「本当に、ただお腹が空いてるだけなんです……」
と、申告するしかなかった。
 一度私を認識できたからか、男性は一発で今の私の発言を聞き取ると、それなら良い、と夕飯の支度に戻る。
「二人とも、まずは手洗いうがいだ。それが終わったら、充紀君は僕の手伝いをしてくれ」
「あ、あの、私もなにかお手伝いを……!」
 夕飯をご相伴に預かるというのに、なにもしないわけにはいかない。そう思って挙手しつつ手伝いを願い出ようとしたのだが、二木さんによってその手はゆるりと下げられてしまう。
「良いよ、暮縞さんは席に座って待っててください。すぐできますから」
「わ、わかりました……」
 ここは大人しく引き下がり、再び二木さんの案内で洗面所へ向かうこととする。準備の手伝いはできずとも、片づけの手伝いはさせてもらおう、と心の中で誓いながら。


「お待たせしましたー。『ひととせ』特製、本日の残り物寄せ集めスパゲッティでーす」
 洗面所で手洗いうがいを済ませ、椅子の四人席に座って待っていると、ほどなくして、二木さんがトレイに料理を乗せてやって来た。その後ろには、ジャーマンシェパードっぽい男性も同じようにトレイを持って来ている。
 そうしてテーブルに並べられたのは、野菜をふんだんに使った和風スパゲッティと、サラダ。お味噌汁まである。
 配膳が済んだところで、私の向かいに二木さん、その隣に男性が座り。
「いただきます」
 と、三人で手を合わせた。
「自己紹介が遅くなってしまったが、僕は永山ながやま久という。充紀君とは従兄弟同士で、彼には僕の店を手伝ってもらっているんだ」
 サラダにドレッシングをかけながら、男性――永山さんはそう言った。
「あ、こ、こちらこそ、名乗るのが遅くなってしまいまして申し訳ありません。私は、暮縞昏葉と申します」
 頭をぺこりと下げ、私も自己紹介する。
「この度は突然にも関わらず、私のぶんまで食事をご用意していただきありがとうございます」
 なにかと誰かに謝ることの多い人生だったこともあり、謝罪の言葉は慣れた様子で口からするすると出ていった。
「それは構わない。二人分用意するのも三人分用意するのも、大差ないからな。なんだったらおかわりもあるから、遠慮なく食べてくれ」
「あ、はい、ありがとうございます」
 お礼を言って、スパゲッティを一口食べる。美味しい。すごく美味しい。味つけ自体はシンプルで、いっそ懐かしささえ感じるほど親しみやすいのに、どうしてこんなに美味しく感じるのだろう。野菜がたくさん入っているから? それとも、麺の茹で具合が絶妙だから? お腹が空いていたこともあり、余計に箸が進む。まかないでこれだけ美味しいのなら、通常メニューはどれだけ絶品なのだろう。
「それで」
 二木さんが言う。
「さっき、暮縞さんは自分のことを透明人間――影が薄くて他人から認識されないって言っていましたけど。俺には最初から、道路の真ん中で蹲っている貴女が見えてたじゃないですか。暮縞さんのそれは、対象を選べたりするものなんですか?」
 その問いに、私は首を横に振る。
「いいえ、本来は一人の例外もなく私を認識しづらくなるはずなんです」
 そうして食事をしつつ、私は説明をすることにした。
 まずは、私の特性について。
 それから、ここへ来るまでの経緯について。
 あくまで客観的に。感情的にならないよう心がけながら、淡々と事実を並べた。
「……とまあ、そんな感じで、今に至ります」
 話しながら食べていた割に、私のお皿の上にあるスパゲッティは残り僅かになっていた。二木さんも永山さんも相槌のタイニングが絶妙で、話も食事もすいすい進んでいたのだ。
「君の特性も経緯も、理解はした」
 一足先に食べ終えた永山さんは、水を一口飲んで、続ける。
「とはいえ、普段からそんな感じであれば、出勤したところで仕事にならないだろう? どうにか在宅勤務に戻すことはできないのか?」
「ごもっともなご意見なんですが、この特性を説明したところで、理解を得られるかどうか……。今の上司は県外出身の人なので、余計に説得の難易度が高いんですよね……」
 透目町の特異性について、隣接する市町村であれば、町内ほどではないにしろ、理解してもらえる場合もある。幸い、私の職場は、透目町の隣に位置する市にあり、理解は得やすい環境と言えよう。だが、上司が県外出身では、なかなかどうして難しい。
「だけど、元々は入社してすぐ在宅勤務になったのだろう?」
「あ、それは当時の採用担当の中に透目町出身の人が居て、いろいろと取り計らってくれたんです」
「なるほど。その担当者の名前は、覚えているか?」
「え? は、はい。夜野よるの琉生るいさんという人でした」
「夜野……ああ、あのデザイン系の会社か。それなら、そうだな……佐渡嶋さどしま安栗あぐりが君の上司か?」
 永山さんは顎に手を当て、記憶を辿るように一瞬目を閉じたかと思うと、私の勤め先に居る人間の名前をぽんと言い当てたではないか。
「そ、その佐渡嶋さんが、私の上司です」
「ああ、それなら透目町への解像度が低くて当然だろう。あの人は基本的に内勤で、滅多にそういう現象には立ち会わないだろうからな」
 永山さんは苦笑しながらスマホを取り出し、なにやら操作し始める。
「君の特性について、僕にできることはなにもない。が、それ以外の助けにならなれそうだ。少し席を外す。失礼」
 言うが早いが、永山さんはそそくさと部屋から出て行った。少しして、微かに階段を上る足音が聞こえてくる。
「それ以外って……え? え?」
 混乱する私を余所に、スパゲッティを食べ終えた二木さんは、
「たぶん、年賀状を確認しに行ったんですよ。スマホに入ってる連絡先より、貰ってる年賀状のほうが多いから」
と、よくわからない補足をして、立ち上がる。
「俺、おかわりしに行くけど、暮縞さんは? おかわりする?」
「ちょ、ちょっとだけ欲しいです」
「ん。お皿貰いますね」
 私がお皿を持って立ち上がるより、二木さんが私のお皿も持って行ってしまうほうが早かった。待ったをかける隙さえなかった……。
「お待たせしましたー。量、これくらいで大丈夫ですか?」
 かと思えば、戻ってくるのも早かった。
 普段、飲食店でこれだけ早く提供を受けることに慣れていない私は、内心おっかなびっくりしつつ、
「あ、ありがとうございます」
と、お礼を言うのがやっとだった。
「それで、話を戻すんですが」
 私の向かいに座り直し、二木さんはフォークにスパゲッティを絡ませながら、言う。
「俺が暮縞さんを見つけたとき、電子機器の類は使っていなかった。その後に会った久君には、暮縞さんの特性の効果があった。だけど俺が暮縞さんに触れた途端に、久君にも暮縞さんを認識できるようになった辺りから、考えるに――」
「か、考えるに……?」
 私が喉を鳴らしながら二木さんの言葉の続きを待つのに対し、当の二木さんは、フォークに絡めたスパゲッティの塊を自身の口に放り込み、咀嚼して、それからようやく言葉を紡ぐ。
「たぶん、俺が異世界人だから、暮縞さんの特性が効かないんじゃないかと思うんです」
「……え?」
 聞き慣れない単語が、さも当然のように飛び出して、私の口からはそんな一音を出すのが精一杯だった。
「あ、いや、正確には、俺は、こことは違う並行世界出身の人間なんですけど」
 これは俺の仮説ですが、と二木さんは構わず話を続ける。
「俺は今こうしてここに居ますけど、厳密に言えば、この世界の理から外れているんだと思います。だから、暮縞さんの特性に対して適応外になったのかな、と」
「え? だ、だけど、永山さんとは従兄弟同士って……それに、二木さんが別の世界からここへ来たのなら、元々この世界に居た二木さんは……?」
 混乱する頭では、思いついた先から言葉を吐き出すことしかできなかった。
 二木さんは、いきなりこんなこと言われてもわけわかんないですよね、と苦笑しつつ、言う。
「久君とは、世界線こそ違えど遠縁の遠縁って感じで、親戚っていうのは嘘じゃないですよ。あと、ここはいろんな因果が巡り巡って俺が生まれなかった世界線らしいので、この世界に二木充紀は俺一人だけです」
「は、はあ……」
 曖昧に頷きつつ、頭の中で私なりに咀嚼を試みる。
「二木さんの言う理屈は、理解できます。違う世界線から来たのであれば、この世界のルールが通じない場面があってもおかしくないですもんね。あの、二木さんは――」
 考えなしに質問をしようとして、咄嗟に口を噤んだ。
 私が今、彼に言おうとした言葉は、こうだ。
 ――二木さんは、元の世界とこことを、よく行き来しているんですか?
 行き来が可能であれば、別段ここで生計を立てる必要はないのだろう。二木さんが今、この喫茶店に勤めているということは、つまり。二度と元の世界へは帰れなくなったと考えるのが妥当だ。それを口に出して訊くのは、あまりに無遠慮が過ぎる。
 私が普段、どれだけ疎外感を感じようと、私には家族が居て、ネット上になら友達も居ることに変わりはない。
 だけど二木さんは、それら全てが断ち切られ、一人ぼっちでこの世界に放り出されてしまったのだ。
「……暮縞さん? どうかしました?」
 突然言葉を切ってしまった私を、二木さんは心配そうに覗き込んできた。
 喉まで出かかっていた言葉を身体の奥深くへと押し込んで、それから、私は別の質問を投げかける。
「あ、いや、その……二木さんは、寂しくないですか?」
「そうだなあ、全く寂しくないって言えば嘘になりますけど。でも、この町にはいろんな人が居て、このお店にもいろんな人が来る。久君には毎日こき使われてるけど、なんだかんだ、楽しい日のほうが多いかなって思いますよ」
 きっと二木さんは、私が飲み込んだ言葉の雰囲気も察したのだろう。それでも彼は、笑ってそう答えた。
 その笑顔が無理して作ったものとは到底思えず。
 きっと、本当に言葉の通りなのだろう。
「誰が誰をこき使っているって?」
 と。
 永山さんが戻ってくるなり、皮肉交じりにそんなことを言った。しかしその表情は、怒っているでも呆れているでもなく、かと言って無表情ではないという、なんとも中立的なそれだった。
「やだなあ、冗談だよ。久君には本当に感謝してるって」
「はいはい」
 いつものやりとりと言わんばかりに、永山さんは二木さんの言葉に雑な相槌を打ちながら、再び彼の隣に座る。
「佐渡嶋と夜野、それぞれに話を通しておいた。明日は会社に着いたら、代表番号に電話を入れてくれ。電話なら誰でも気づくだろう。佐渡嶋とするだろう今後についての話し合いには、夜野も同席するよう言ってある。君がその特性故に今後も在宅勤務を続けたい気持ちはわかるが、元々は君がその勤務形態で無理をしたことが原因なのに変わりはないから、三人で上手いこと落としどころを見つけてくれ。僕にできるのはここまでだ」
「……永山さんって、ウチの社長かなにかですか?」
 この短時間に、そこまで話をまとめてきた永山さんの手腕に絶句し、私はそう言うことしかできなかった。いや実際、そうでもないと社内の人間にここまで融通を利かせられないのではないだろうか。
 しかし永山さんはといえば、一瞬きょとんと目を見開いたかと思うと、次の瞬間には一笑に付し、
「僕は知り合いが多いだけの、しがない喫茶店のマスターだよ」
と言うのだった。
 どれだけ多く見積もっても三十代前半くらいだろうに、とんでもない人脈だ。きっと、とんでもない密度で人生を歩んできたに違いない。
「ごちそうさまでした!」
 私が呆気に取られている間に、二木さんが食事を終わらせていた。
 私はといえば、話に夢中になっていた所為で、お皿にはまだもう少しスパゲッティが残っている。
「ああ、暮縞さんはゆっくり食べててくださいね。俺、自室から持ってきたいものがあるので、少しだけ席を外します」
「じゃあ僕は、食後のお茶でも淹れようかな。ハーブティーは飲める?」
「あ、は、はい。大丈夫です、飲めます」
 私が食事に集中できるように取り計らってくれたであろう二人に、心の中で感謝しつつ、スパゲッティを食べ進めることにした。
 そうして最後の一口を、名残惜しくも咀嚼し終える頃、二木さんが戻ってきた。
「おっ、ナイスタイミング~」
 陽気にそう言った視線の先には、お茶を淹れ終え、トレイに茶器を乗せた永山さんの姿があった。
「良い匂い……。これ、カモミールティーですか?」
 おしゃれなティーカップに注がれ出されたそれは、心が安らぐ匂いをしていた。
「正解。例によって消費期限間近のもので悪いな」
 永山さんはそう言いながら、もう二人分のハーブティーをティーカップに注いだ。
 そうして二人が席に戻ってから、ゆっくりとハーブティーを飲むと、身体の内側からぽかぽかと温まっていく。ここ一年ほど、仕事に集中する為にコーヒーばかりを飲んでいたからか、余計に身体に染み渡っていくような感覚に陥る。
「暮縞さん、これ、あげる」
 そう言って二木さんがおもむろにテーブルに置いたのは、鈴だった。硬貨ほどの大きさのそれには、深緑色の紐がつけられている。
「これ、今年の民謡流しのときに何個か貰ったんですよ。なんでも、透目町の民謡流しで使った鈴はご利益があるとかなんとか。お裾分けです」
 私も透目町の人間だ、この鈴がどういうものかは知っている。けれど、民謡流しもお祭りも、この特性のこともあり、小さい頃に父に手を引かれて行ったっきりだった。当時もそれを羨望の眼差しで見つめ、貰えなかったことが、自然と思い出される。
「いくら俺が暮縞さんの特性に対して特効薬的な力があったとして、四六時中貴女に触るわけにもいきませんから。気休め程度にしかならないとは思いますけど、どうか貴女にも、この鈴の音のご加護があらんことを」
 あ、もちろん本当に困ったときは、遠慮なく頼ってくれて良いんですよ。
 そう付け足して、二木さんは鈴をずいっと私の前に差し出した。
「……ありがとうございます。大切にします」
 手に取った鈴は、私の手の中で、小さく鳴った。


 翌日。
 私は重たくなる気持ちを引きずって出社した。
 永山さんから言われた通りに会社に電話をかけると、小さな会議室に案内され、上司である佐渡嶋さんと、同じ透目町出身である夜野さんと私の三人で話し合いが行われた。
 結論から言えば、完全在宅勤務にはならなかった。
 どうしたって、それで倒れて入院した経緯がある以上、会社としてもその要望は飲めないと言われた。だが、しばらくは週に一度の出社日を設け、様子を見ていく方向で決着が着いたのは、大健闘と言えよう。出社日が憂鬱であることに変わりはないが、上司や同僚に私の特性について把握してくれている人が居るというのは、とても有り難い。とはいえ、その理解に甘えてばかりもいられない。私にできる対策を考え続け、試行錯誤していくしかないのだろう。結局、私の人生はこの特性からは逃れられないのだと、今回の件で痛感した次第だ。
 そうして今後の私の勤務形態についての話し合いをしたあとは、仕事の引き継ぎや、出社日の業務環境の確認等を行い、私は定時に退勤した。
 帰り道の途中、お菓子屋さんに立ち寄り商品を吟味しながら、今日のことを思い出す。
 佐渡嶋さんも夜野さんも、永山さんとは昔からの知り合いだと言っていた。特別な恩義があるわけではなく、たまたま一緒に仕事をしたことがあったり、町の行事で知り合いになったりしていたそうだ。だから永山さんは二人に対して圧をかけたりせず、単純に、お互いの事情を理解した上でじっくり話し合いをして欲しい、と頼んだだけらしい。いやはや、本当に有り難い限りである。
 そんなわけで、私は会社でのことの顛末の報告と、改めて二木さんと永山さんにお礼を言う為、菓子折りを持って、本日再び喫茶店を訪れた。
 今日の休憩時間中になんとなく調べてみて驚いたのだが、あの喫茶店は結構な人気店らしい。平日は予約なしで良いが、土日は予約必須だった。去年の夏頃に透目町を紹介した動画が投稿された際、そこに喫茶店も含まれていたことがきっかけになったようである。しかし一時のブームで終わらず、動画公開から約一年ほど経った今でも人気店で在り続けているのは、定期的にSNSやホームページで情報発信を行っているからだろう。企業アカウント顔負けのクオリティでメニューが紹介されており、口コミサイトでの評判も良いとなれば、近隣市町村の人間はもちろんのこと、他県からやって来る人が居ることも納得の一言である。
「いらっしゃいませ。お一人様で……あ!」
 果たして入店に気づいてもらえるのかと、どぎまぎしながら喫茶店に入ると、二木さんが紳士的な笑顔で案内をしようとして、やってきた客が私だと気づくと、ぱっと花が開くような笑顔を見せた。
「昨日の今日ですみません。今日はお二人にお礼を言いたくて来ました」
 これ、と今しがた買ってきたお菓子の詰め合わせが入った紙袋を二木さんに渡す。
 そうして、ここへ来るまでの間、頭の中で何度も繰り返し練習した言葉を口にする。
「おかげさまで、出勤は週一で、それ以外は在宅勤務となりました。本当にありがとうございました。あ、永山さんにもよろしくお伝えください」
 仕事の邪魔をしてはいけないと、簡潔に報告をし、頭を下げた。
「わあ、ご丁寧にありがとうございます」
 俺らは特になんにもしてないですけどね、なんて謙遜をし、二木さんは続ける。
「暮縞さん、良かったらウチに寄っていきませんか? あ、今日は料金いただきますけど」
「それなら……はい、是非に」
 僅かな逡巡の末に、私はお誘いに乗ることにする。
「今日はお金、ちゃんと持ってきてますから大丈夫です」
 正直に言うと、昨日食べたスパゲッティの味が忘れられずにいた。席が空いているようであれば、とは考えていたのだ。平日の夕飯時という今の時間帯、店内の席は六割方埋まってはいるが、みんな思い思いに過ごしているようで、二木さんも永山さんも、目が回るほど忙しくはないようだ。
「お好きな席にどうぞ」
 二木さんはにっこりと笑みを深めてそう言うと、一歩下がって身体の向きを変え、私に店内がよく見えるようにしてくれた。
 どうやら窓際が人気のようで、その辺りの席は全て埋まっている。そういえば口コミサイトで、四季折々の植物が見られるお庭が立派だって書いてあった気がする。お庭はまた明るい時間帯に来られたときのお楽しみにするとして、今日はどの席にしようかと、今一度店内を見回し、私はカウンター席に座った。
 上着を椅子に掛け、鞄を足元に置いて落ち着いたところで、二木さんがやって来て、お冷とメニューブックを渡してくれた。
「ご注文がお決まりの頃に、またお声がけしますね」
「は、はい。ありがとうございます」
 いつもなら、こういったお店に私一人では来ない。私が一人で行けるのは、セルフレジ方式のファーストフード店か、タブレット注文式のチェーン店くらいだ。
 だけど二木さんなら、他の人と同じように私を扱ってくれる。
 それが予想以上に心をくすぐり、私はにやけ顔を隠すようにメニューブックを開いた。
 メニュー数は多いが、それで目が滑ることはなく、非常に見やすく作られている。口コミサイトのレビューを見た感じだと、投稿者によっておすすめメニューが全く異なり、それはもう様々な写真が掲載されていた。喫茶店の王道メニューから、焼き魚定食なんてものまである。年寄りも多い田舎町という立地上、和食にも力を入れているのだろう。
 その中から食べたいものを決め、注文をしようと、顔を上げる。
 すると、丁度目の前でコーヒーを淹れていた永山さんと目が合った。
 目が、合ったのだ。
「君か。来てたのか」
「き、昨日はお世話になりました。おかげさまで、今後もなんとかやっていけそうです。本当にありがとうございました」
 冷静を装いつつ、内心は心臓がばくばくと跳ねている。それもそのはず。
「永山さん、私のこと、いつから見えてました?」
 彼が昨日、私を認識できたのは、二木さんと接触して以降だった。今日、会社ではいつも通り私に気づかない人ばかりだったから、その効果は残っていなかったはず。
「鈴の音がしたから、君が来たのかなって思って顔を上げたら、そこに君が居た。入店には気づかなかったかな」
「なるほど……」
 昨日、二木さんから頂いた鈴は、鞄につけていた。足元に置くときに一際大きく鳴ったのだろう。……やはりあの鈴、想定以上にご利益があるのではないだろうか。
「それで? ご注文はお決まりですか?」
 永山さんが淹れたてのコーヒーを二木さんに渡し、二木さんがそれを注文したお客さんのところへ提供に向かったところで、永山さんからそう尋ねられた。
 たったそれだけでも、私にとっては万感の思いがして、目頭が急速に熱を持ったのがわかった。零れそうになったそれをぐっと堪えて、私は言う。
「ナポリタンセットひとつ、お願いします」



※二木充紀がこの世界線にやってきた経緯については、こちらの作品で描いています。よろしければ是非に。


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