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【長編小説】暮れなずむ秋と孤独な狛犬の歌 #29

10月7日(月)ーー(1)

 雲ひとつない秋晴れであるこの日。
 僕は真っ直ぐ学校へ行くことに違和感を感じていた。この土日を神社で過ごしていた所為かもしれない。思えば、休日に外に出ていたのは久しぶりだった。
 そんなことを考えながら、僕は自転車を漕ぎ進める。
 どのクラスも今日から朝練が始まるのか、早い時間にも関わらず、通学路はいつもより人で溢れていた。バスも電車も整備されていない田舎じゃ、大人はみんな車で通勤する。だから通学路には同じ方向に向かう中学生しか居ない。各々のペースで、それぞれにいろんなことを考えながらの登校だ。
 この日の登校中、僕は例によって、神社に居る少女について考えていた。
 通学路から、あの神社のある方角を見遣る。
 木々に隠され、その社殿を見ることはできない。当然、少女の姿だって見えるはずもない。
 あの場所に少女が居ることを知っているのは僕だけで、こうして遠目にでもあの神社が見えてしまわないかと気を揉むのも、きっと村中で僕だけしかいないのだろう。そう思うと、なんだか不思議な感覚だ。
 本当のことを言えば、学校なんてサボって、神社に直行してしまいたかった。だけど先週の金曜日、小山田さんに朝練にも毎日参加すると啖呵を切った手前、初日から休むわけにもいかない。学校での練習をサボれば、少女との練習だって意味を失ってしまう。だから僕は、今日も学校へ足を進める。
「それじゃあ、これから、練習を始めます」
 七時四十五分。
 真面目な人が多いのか、朝練は時間通りに開始された。
 東海林しょうじ君がラジカセを準備している間に、小山田さんが前に立ち、クラスに指示を出す。
「今日は、一度曲を通して聴いて、そのあとパートごとに集まって、練習します。東海林君、お願い」
 小山田さんからの合図を受け、東海林君がラジカセの再生ボタンを押した。すると、僕にとってはすっかり聞き慣れたこの曲が、ラジカセから流れてくる。
 楽譜を読むのはまだ苦手だが、なんとなく目で追える程度にはなっていた。この二日間の練習では、とにかく音程を覚えることを一番にしていたから、細かい記号の意味はわからなかったけれど。それでも、数日ぶりに曲を聴くクラスメイトよりは理解できているであろう自負はあった。優越感というよりは快然とした気分と言っても良い。これまで音楽に明るくなかった自分が音楽に対して多少なりとも理解できていることが、単純に嬉しかった。
 曲を通して聞いたあとは、先に指示があった通り、パートごとに集まっての練習である。女子はソプラノとアルトに分かれ、男子は一同に集まる。パートごとの歌声が収録されている音源を流し、それに合わせて実際に歌い、練習するというわけだ。
 しかしながら僕は、この練習で驚かされることとなる。
 なにせ僕の周りは、ぼそぼそと呟くように声を出す連中ばかりだったのだ。揃いも揃って面倒臭そうな表情を隠さず、虚ろな目が歌詞を追う。この曲の全体像を掴みきれていないにしろ、やる気がないなら無理に来なくて良いのに、と思ってしまう始末だった。
「はい、それじゃあ、ええと、歌ってみて、気がついたことがある人は、いますか?」
 しかし、小山田さんからの問いかけにそれを指摘する人間は誰も居ない。
 初日だからこんなものなのだろうか。クラスメイトの考えていることがわからない僕は、彼らに倣って無反応でいた。だが、それから二回ほど繰り返して歌ったが、彼らの歌いかたが改善することはなかった。
「――なあ美秋よしあき。お前、どうしちゃったんだよ」
 若干のもやつきを感じながら初日の朝練が終了した、その直後。
 朝学活が始まるまでの時間は読書でもしようと思って席に戻った僕に、珍しく声がかけられた。
 顔を上げて確認すると、そこには小学生の頃はよく一緒に遊んでいた賢斗けんとが立っており。なんとも驚いた様子で僕を見ていたのである。
「ど、どうしちゃったって、なにが」
 こうして賢斗と話すのは、一体いつぶりだろう。
 交通事故のことがあってから、賢斗は明らかに僕を避けていた。恐らく、親から強く注意されていたことが原因だ。賢斗は普段から、明け透けにものを言うやつだ。だから、変なことを口にしてしまうくらいなら、僕と距離を置いたほうが良いと言われていてもおかしくない。
 そんな賢斗が、中学生になってから初めて僕に声をかけてきたのだ。
 平静を装って前までと同じように返したはずの僕の声は、明らかに動揺して震えていた。
「さっきの朝練だよ。めっちゃ歌えてたじゃん」
 それに気づいているのかいないのか、賢斗は前と同じように僕に話しかけてくる。
 彼のことだから、きっと僕の動揺になど気づいていないのだろう。下手したら、竹並美秋と距離をおきなさいと言われたことすら、忘れているのかもしれない。
「別に。普通だったろ」
「んなわけあるかい!」
 賢斗はテレビに出ているお笑い芸人を真似し、片手で軽くツッコミを入れる。
「小学校の卒業式は、ぎりぎりまで歌詞を覚えられなくて大騒ぎしてただろうが! ……あ」
 そう言ってから、賢斗はしまったと言わんばかりに口を真一文字に閉じた。
 次の瞬間には、教室中に妙な緊張感が走るのがわかった。どうやら、クラスメイト達はそれとなく僕らの会話に耳をそばだてていたらしい。
「別に」
 ため息混じりに、僕は言う。
 脈打つ心臓を押さえつけ、今までと同じであるように。
「ちょっと楽譜を読んで予習してただけだよ」
「……あー、へえ、そうなんだ! すげえ、偉いじゃんっ!」
 これまで通りに話す僕の様子から、賢斗もなにか感じ取るものがあったらしい。引き攣った笑顔は、次第に見慣れた人懐こいそれになっていった。
「だろ? おかげで絶好調だ。歌詞と音程が頭に入ってるから、すごく歌いやすい」
「すげえすげえ! そしたらさ、オレにも教えてくれよ。音程、全然わかんないんだ。歌えないの格好悪いし、頼むよ美秋ぃー」
「良いよ」
「やった」
「どこ?」
「全部」
「……ああそう」
 そんな話をしているうちに、教室の空気が和らいでいくのがわかった。
 それは今まで感じたことのない、居心地の良いもので。
 気を張っているのが、馬鹿らしくなるほどだった。
「賢斗、ありがとな」
「へ? なにが?」
「……なんでもない」
 この日を境に、僕は徐々にクラスに馴染んでいくこととなる。
 誰のおかげかなんて、言うまでもない。
 今、目の前にいる相手にはお礼を言うことができた。
 もう一人には今日の放課後、合唱の練習が終わったらすぐに神社へ会いに行こう。
 そう思った。

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