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「田舎の普通」が心地よい理由

朝起きたら、家の前の畑で作業をしていた大家さんから大根をいただきました。都会じゃなかなか出会えない形の「親切」に本当に心があったかくなったと同時に、この田舎ならではの「心地よさ」について、それがどこから来るのか考えてみました。


土つきの大根をお裾分けする田舎の「普通」

私の家は、住宅が立ち並ぶ一角にあるんだけれど、目の前が大家さんが管理する小さな畑になっていて、ほとんど毎日と言っていいほど、畑仕事に精を出す大家さんを見かけます。今日も出勤する際に前を通りかかったらいらっしゃったので挨拶をしたら、成り行きで大根と長ネギをいただけることに。

「かまんから(かまわないから)持ってって」

そう言って、まるまる肥えた大根を畝から引っこ抜いて、脇の水道でじゃぶじゃぶ洗って、ホイッと渡してくれました。大家さんご夫婦や息子さんご一家は、ことあるごとに、困ったことないか足りてないものはないかと、一人暮らしの私を気にかけてくれて、網戸の修理や庭木の剪定など、一人ではなかなかできないお家の整備などもやっていただくこともしばしば。本当にありがたい限りです。

そもそも、今の家を借りるに至った経緯も実は結構「普通」ではなくて。

移住を検討する人が最初に悩むポイントは家探し。田舎は空き家が多いからといって、移住者がすぐに住む家を見つけられるかと言うとそうでもなく。家の状態が悪くてすぐに住めなかったり、空き家だけど仏壇などの家財道具が置いてあるから貸してもらえなかったり、そもそもどこの馬の骨ともわからないよそ者に家を貸したくないと思う人もいたり、いろいろな理由がありますが、移住者の家探しって結構大変。人口数万人規模の都市ではいざ知らず、人口6000人ちょっとの我が町では賃貸アパートもたくさんあるわけもなく、必然的に空き家一軒家を探すことになるのです。

家探し、結構時間かかるかもなーと、移り住む前にいろいろ下調べをしていて思っていたのですが、結論から言うと移住三日目で今の家を借りることができたのでした。

と言うのも、移住して3日目に、私が住む地区の町民運動会があり、そこでたまたま今の家の大家さんの息子さんと出会い、「家探してんならうち住めば?」と言われてトントン拍子で借りることが決まったわけです。当時は会社が運営するコワーキングスペース兼宿泊施設に住んでいて、早々に定住する家を町内に探さなければいけなかったので本当に助かりました。

「空いてるから住んじゃいなよ!」

魔女の宅急便でパン屋のオソノさんが「部屋空いてるから好きに使ってー」とキキに言うみたいな調子で、本当に気軽にお家が決まったのでした。

ちなみに、木造平家の2DK。
一軒家ですがコンパクトでとっても住みやすい。太陽の光もサンサンで、家が好きすぎて、自然がこんなにも近くにある環境なのに縁側で日向ぼっこしながら本を読むのが最高の楽しみになっているのは超余談です。


田舎の「普通」が、なぜ都会では「ありえない」なのか

とれたてお野菜をおすそ分けいただいたり、家を探すなら不動産屋じゃなくて人づての方が確実だったり、これが田舎の日常で、田舎の普通です。

そういえば、以前、自分の車を持ちたいなと思っていたとき、地元の人に相談したら「知り合いがちょうど車を手放したがっていたんだよ。もうちょっと早く言ってくれれば、つなげられたんだけど」と言われたこともあります。

「これが欲しい」といえば誰かがくれたり、情報を教えてくれたりする。「これができない」といえば誰かがやってくれたり、やり方を教えてくれたりする。人の輪の中で、モノも情報も生活自体も循環している。それが田舎の「普通」なのだと感じます。

こんな田舎の「普通」。個人的にはとても心地よいと思うのですが、なぜ都会では「ありえない」なのか。ちょっと考えてみたら3つのことに行き着きました。

1、多くのことが人の手でつくられるから(環境的な側面)
当たり前の話ですが、家庭菜園をやってたりする人が多いからおすそ分けを頻繁に行えるんですよね。おうちも空き家がたくさんある割に不動産屋さん自体が少ないし、個人で管理している方が多いから大手賃貸物件サイトとかにはまず情報がのらない。食べ物を作ったり、家を作ったり管理したり、その他多くのこと、営みが人の手でつくられている。都会では、多くのことが「人の手を離れている」状況にあって、田舎と都会の大きな違いかなと思います。

2、田舎は声をかけあうのが普通、都会は声をかけないのが普通
田舎では知らない人でも挨拶をし合うのが普通だし、知らない人ともちょっとした立ち話をすることも日常茶飯事。都会ではそれはNGですよね。子供の頃から私も「知らない人と話してはいけません」って教えられたし、その理由もわかります。
ただ大学の頃に、帰国子女の友達が校門の守衛さんにしっかり毎日挨拶していて、すごい衝撃を受けたのと、見ていてとても心地よかったのを覚えています。その友人に触発されて、仲間内では守衛さんに挨拶するのは「普通」のことになったんですけど、やっぱり少し変な目で見られていた部分はあったと思います。
声を掛け合い、ちょっとした会話で、みんながちょっとづつ繋がれる。その中で自然と「シェア」の文化が生まれる。現代の都会ではなかなか生まれにくい繋がり方なのかなと思います。

3、都会は親切がためらわれる
都会と田舎で「普通」の違いが生まれる一番大きな理由はこれだと思っています。都会は親切なことをしようとしたときに「お節介じゃないかな?」「逆に迷惑じゃないかな?」と心配しすぎて行動に起こせないことがよくある。電車で年配の方に席を譲ろうかどうしようか躊躇っている間に降りてしまったとか、食べきれないほどの何かをもらったのでご近所に持っていこうかと思っても「好みじゃなかったらどうしよう」「あつかましいって思われないかな」とか色々考えて結局、そのおすそ分けは果たされない。
みんなちょっとだけ余計に優しすぎで、ちょっとだけ余計に慎重なだけだと思うけど、わたし的にはちょっと息苦しいと感じてしまうのも本当で。田舎にきて一番心地よいなと感じたのは、親切を躊躇わなくてもいいこと。もちろん本当に相手のためを思って考えて行動することは大事だけどね。


都会にも田舎のそれと似た「普通」があった、はず。

話はちょっとズレますが、ジブリ映画の「耳をすませば」がとても好きで、特に主人公が住む団地が出てくるシーンがすごい好きなんです。

主人公のお父さんが帰ってきたときに、踊り場でご近所さんと出くわして、「こんばんは」って挨拶をして、ご近所さんが降りてくるのを踊り場で待って、ご近所さんは早足で階段を降りてきて、すれ違う瞬間にお父さんの方を見ながら「すみませんね」って笑顔で言う。

このちょっとしたやりとりに、当時小学生だったわたしはなんだかすごく心躍ったし、今見てもすごく懐かしさを感じると言うか、あったかい気持ちになります。

「耳をすませば」が公開されたのは1997年。映画の時代背景も公開当時とそんなに変わらない現代かと思います。場所はまだ今ほど開発されていないニュータウンな多摩地区。都会と田舎の狭間で、団地に住む人たちの短いやりとりの中に、都会で失ってしまった「親切心を持って気安くお節介をし合うこと」への憧れみたいなのがあのシーンにはあると思うんです。

田舎から送られてきたリンゴをおすそ分けたり、夜に友達の家に気軽に遊びに行ったり、道を譲ったり、譲られた道を素直に通ってお礼を行ったり、ちょっと前の都会にもそんな「普通」があったんです。

もちろん今だってあると思います。ご近所付き合いが活発な地区が都心にもあると思います。ただあくまで自分の経験上、都会で生きていて、隣の部屋に住んでる人がどんな人かも知らない状態の中で気軽におすそ分けってできないなって。

多くの人が実は心の内では、人に親切にしたいと思っているのではないか。都会に住んでいても、田舎に住んでいても、変わらず人って実は結構他人に親切にしてあげたい欲求があるもんだと思っています。

やり方がわからなかったり、ありがた迷惑と思われたくなかったり、変なやつと思われたくなかったり、いろんなバイアスがかかっちゃって、行動に移せない人が結構な数いると思っています。わたし自身がそうだったので。

わたしは基本的に人と話すのが好きだし、結構お節介をやきたいタイプなんですが、都内で知らない人にいきなり「今日は寒いですね。その荷物持ちましょうか?」なんて声をかけたら絶対通報されるか、訝しげに見られて無言で立ち去られるかどっちかでしょう。

田舎に住み始めて知らない人にでも気軽に声をかけていい雰囲気。お節介とかありがた迷惑とかそういった心配をすることなく、やってあげたい親切を送り合える気持ちよさ。田舎には他人に親切にしてもいいっていう「普通」がある。それが最高に心地よいんです。


本来の人間の在り方が田舎にはある

元来、人間は群れで生きる社会的な動物です。もちろん独りが好きな人や大勢でいることが苦手な人はいると思うし、私も適宜、一人になれる時間は必要です。でもやっぱり、人間がこの世に誕生して長い間培われてきた在り方ってそう簡単に根本が変わるもんじゃない。

人は人とのつながりの中で助け合って生きる。助けられることがあったら手を差し伸べる。

単純なことだけど、そんな当たり前のことを当たり前にできる環境があることが、もはや有り難い世の中になってしまっているから、みんなちょっとずつだけ息苦しい。そんな気がしてならないのです。

田舎での暮らすことは、正しい在り方に戻ると言うか、本来の在り方を思い出させてくれると言うか、そんな風に思います。いつもそんなことを思いながら生活しているわけではないかれど、ふとした時、例えば土つきの大根なんかが、そんな「特別なこと」に気づかせてくれるのです。

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