凡庸という幸福。

ほぼ自分のために書いた文章で、ひさとしメンバーにエールをおくることがてきていたことを知って、嬉しいというか面白いというか、面映ゆいというか。

一応インディーズバンドのプロモーションnoteだったはずのこの場が、おじさんたちの交換日記になっちゃっているこの事実が、なんとも可笑しいのですけれど、まあ、それはそれで、良いんじゃないかなぁ、と。

今日、本当にnoteをプロモーションに活用するための王道を学ぼうと、初めて、色んなnoteを見に行ったんです。

そしたらなんと、素晴らしいテキストが出てくること!賑わうnoteと、そうじゃないnoteの違いが、ちょっとうっすら感じ取れたような気がしたのでした。王道、大事!(と言いつつ、この投稿ではその教訓は活かさないんですけど、まあ、そのうち。)

なんかここ最近の自分は、生き方改革だなぁと思うんです。

これが幸せの必要条件だと思ってたのが、実は違ったり。あって当たり前にあると思っていたことが、むしろ十分条件だったり。

長いこと、自分の弱みを放置してきて、表面的な器用さだけで結果らしきものを出して、自分を過大評価して傲慢になっていたり。

一方で、心配したことが起きなかった確率が95% で、逆に、心配したことが起きたけど大丈夫だった確率は100%だったり、ということに気づいたりして。

もしかしたら、これまでの人生で、想像を絶する認知の歪みが発生していたのかも。

うーん。まあ、でも、それだけ認知の歪みがあっても生きてこれたのは、社会というものの懐の深さゆえなのか。とはいえ考えてみれば、去年の10月ごろに何か変わらなきゃと心の奥でささやいたもう一人の自分がいて。無意識の奥底にある泥のような層のまた奥に、真の意味で客観視をする超自我のようなものがあるのだろうか、なんてことも、思ったりする。

そしてなんだ、この、色々改革してるとか言いながら、相変わらず、基本的に自分の内面にばかり興味が強くて外界への関心が低い感じ。

また、長々しい一人語りになってしまい、すみません。

結論は、特に無いんだけど。敢えて言えば、「目の前にある幸せを、大切に」なんてところでしょうか。

教訓とは、常に凡庸に見えるものなんです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?