物語 象徴 大衆的セールス

物語は、読む人によって受け取り方が違って良くて、読者の数だけ物語がある、とはテクスト理論と言ったっけ。

久しぶりに「村上春樹イエローページ」を読むと、加藤典洋の読みに唸らされ、ふと思ったのだった。

しかしその読解は微妙なところがある。衝撃の、というよりは賛否両論のラストの解釈で、その微妙なひとさじのおかげで失敗作だという人もいるなか、加藤は、いやだからこその傑作なのだと、そういう意見を表明する。しかも、おれも昔は貶したけど、後々よくよく考えたら間違っていたんだと、なかなかの念の入れようでそれを主張する。

その部分の解釈は決して瑣末なものではなくて、その部分をどう理解するかで、作品の象徴する時代性が変わってしまう、そんな要のような部分なのである。

村上春樹作品が売れているという事実と、素直に読解しようとしても否応なく賛否が割れる事実、この二つをいかにして考えたらいいのだろうか。

仮説1   時代性とか象徴とセールスは関係ない

仮説2   賛否を呼ぶからこそ売れるのである

仮説3   大衆の無意識は正しい読解をしている

こうした問いはあてどないのだけれど、「売れる」とか「売れたい」とか考える以上は、考えるべきテーマなんじゃないかな、と、思ったりもする。

もうちょっとちゃんとした、三段論法なりなんなりで演繹的に語りたい、と、思いつつ、子どものお世話をするためにパパバンドマンにして気まぐれ評論家たる私は読み聞かせのために娘のもとへ赴く。

おばけのアッチ。思うんだけど、児童書って、筋書きも理屈も超越してることないか?

(ようへい)

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