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遠い場所、遠い時間を手元に引き寄せる魔法

今日は仕事で茨城に訪れていて、ふとnoteを見にきたら、ひさとしメンバーが久しぶりに記事を更新していた。そして、お父さんをなくされてから書いていたというnoteの存在について初めて知って、彼が館山と東京を往復しながら過ごした49日間の時間を、少しだけ垣間見ることとなった。

そんな自分は今朝、移動しながらgooglemeetで様々な場所にいる仲間とディスカッションして、こうしていま、茨城県は石岡という街にいる。

スマホという窓を通して、様々な人のこころを垣間見ることができる。そんな時代だなぁ、と、ありきたりな感慨を、つい、漏らす。すごい話だ。リアルタイムに反応しあうこともできるし、固定化された表現に触れることもできる。そういう時間、空間の感じかたは、きっと、人類の生き方になにかしらの影響を与えているのだろう。

ところで、最近めっきりワインを飲んでいて、それはおのずとワインについての知識も増やす行為をともなっていて、ワインは葡萄自身の水分以外の水を加えずに醸造するのだと知った。それってすごくロマンティックな話だと思った。なぜロマンティックなのかというと、いま手元で飲もうとしているこの液体とは、元を正せばブルゴーニュや、ボルドーや、カリフォルニアや、チリや、南アフリカや、あるいは甲州、信州で降った雨を、またそれらの地の奥深くで伏流する水であり、実に遠い場所の水を飲んでいるのだと気付いたからだ。しかも、それらの水は数年前だったり、場合によっては数十年前だったりする。

空の上で、地中の奥深くで、樽の中で、カーヴのなかで、飲まれる日をじっと待ちながら、少しずつ、少しずつ、組成をくみかえていく。ワインというものもまた、時を、場所を超える手段だったである。遠い場所、遠い時間を手元に引き寄せる魔法。

考えてみたら、そういう魔法は、スマホやワインに限らない。日記がそうであり、手帳がそうであり、音楽がそうであり、写真がそうであり、詩がそうであり…

奇しくも、ひさとしメンバーと同じタイミングで、自分の母が体調を崩し、家族全員が覚悟したのだが奇跡の復活を遂げたという出来事があった。そして、自分もまた、そのときのことをきっかけに文章を書いていた。だからなんだということはないんだけど…似た場面で似たことをしているのに、表現された内容は随分と違うのが、面白いといえば面白い。

ひさとしメンバーの書いた、臨終の場面を読んで、不思議なことに、次女の出産を思い出した。破水した後、数十時間という単位で陣痛がこなくて、一体いつになったら生まれるのかわからなかった。長女は長女で寝かしつけしなきゃいけないし、妻は妻でそばにいたいし、自分は自分で夜は眠いわけだし、ひとつところに落ち着くことができず、馬鹿みたいに夜討ち朝駆けで妻の実家と病院を往復し続けていた。そういう劇的な時間のすぐそばには、来週のアポをどうしようかみたいな日常の時間が流れている。その、ままならなさは、悲劇なのか喜劇なのか。振り返って考えると、可笑しみがある。

生まれる時刻も亡くなる時刻も、人の意志ではコントロールできない。出産と臨終だと、正反対のことだけども、そんなところが共通している。

そして、その「思い通りにはならない」という共通点が、とても大切な何かを示している気がする。生きているこの時間、現在というときのなかで、人は常に何かを思い通りにしていると錯覚しているわけだけれども、本当は、自分のこころでさえも、ままならない。現在という名の軛。檻。

そこに囚われているからこそ、「あちらがわ」を希求する。だから、様々な文明の利器を駆使して、リアルタイムに接続する。一元化する。しかし、どこまで繋いでも、生きている限りは、繋がったその先は、繋がった瞬間、「こちらがわ」の延長に堕してしまう。

こちらがわに来る前の記憶も、あちらがわにいつたあとの記憶も、生きているうちには触れることはできない。茨城は石岡の町で仕事をしながら、そんなことを思った。

(ようへい)

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