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感情の損益分岐点。人生の貸借対照表。

昨日は記念すべき第一期決算報告会議。
諸事滞りなく進行して、やれやれといったところに実家から色々と連絡。一転して、精神的な負荷MAXな午後となった。

この一年半ほどの歩みを振り返ると、体調を崩し、立て直し、色々あってここまでやってきた。多くの弱点に気付き、乗り越えてきたと思っていたけれど、なかなかどうして、対応できる範囲を超える状況に立たされると、地が出る。
久しぶりに、本当に久しぶりに地が出てきて、嘆息することしばし。

自分のテーマは、他者との分離、ということにつきるのかもしれない。

わりとどうしても、瞬間的に他者に同化してしまうところがある。何かやってあげたくなる。あるいは、やれない自分を責める。一対一なら問題はそんなに表面化しないが、人数が増えて、他者同士の不和が発生すると、いてもたってもいられなくなる。そこに自分がリソース投下できる状況なら、しゃにむに働いて、働きかけて、状況の改善に奔走したりする。それは、他者のためなのか、平穏を求める自分のためなのか。
人のために頑張っていると見せかけて、実は自分のためのエゴイズムなのだ。強烈に制御したい願望が芽生えるときがある。押しつけがましい親切心は、迷惑なだけだ。そして自分は全能の神ではなくて、あらゆる課題を事前に解決できるわけではない。あれこれ考えても、自分を不安にするだけだ。滑稽な独り相撲。と、頭では思っていても、難しい。

根本的な動機は、平穏な組織感情の空間に身を置きたい、というところにある。一対一の場合、自分が相手に合わせてすむなら、呼吸をするかのごとく、あわせる。他者同士にも、無意識に、求めてしまっている。シンクロを強く求めるあまり、場をコントロールしようとしてしまう。

そういう性向は、実務的にはプラスなことが多い。相手が他者でいられる距離感。等価交換する相手としてのお客様。契約と決済をベースとした関係性なら、ある一線を踏み越えずにものごとを処理していける。
しかし、家族や友人、あるいは同僚といった贈与ベースの関係性においては、うまくいくときはうまくいくのだが、歯車が噛み合わなくなると、途端に、しんどい状況に陥る。

最近は、自力によってなんでもかんでもコントロールするのは不可能なんだと、みにしみて思い知った。
だから、他力との付き合い方を学んだ。それは、執着を手放すということに、本質があった。そこまでは良かった。ただし、その根源的なモチベーションは、精神的な平穏への飢餓感という、エゴにあったのだった。それもまた、執着だ。そこに気づいたのが、現在地だ。

精神的な平穏への飢餓を手放すことは可能なのだろうか。昨日の家族との会話で、他の人は、必ずしも、自分ほどそこには飢えていないのだと気づいたのだった。ひかえめに言っても、衝撃的な発見だった。
幼い頃から、自己主張が強い家族に囲まれていた。時々それが苦痛だった。自分が抱えている偏りは、そうした幼い頃からの環境と遺伝子の共同作業によって形成されたものなのだろう。しかし、極めて似た環境、遺伝子であるはずなのに、兄弟によって偏りが真逆に触れたりするのは不思議な現象だと思う。もっといえば、「押しつけがましい親切心問題」は、それこそ母自身が若い頃から苦労して付き合ってきた話なのだと、そういえば、これも度々聞かされていた。しかしそこから導かれる行動原理については、全く違う道をたどってきたように思う。性格形成とは実に不思議な現象なのだと思う。

もしかしたら、飢餓感とは全て、相対論であり、無い物ねだりであって、すべてが満たされることは、きっと、原理的に、ないのだろう。

幼少期の飢餓感を、自分の子育てで補償したくなるのはどんな人にも共通していると思うのだが、原理的にそれらは一方通行の連鎖でしかありえず、我が子のためにしているつもりが、自分のためにしているに過ぎないのだろう。そして、自分のためにしているつもりの結果が、さほど実質的な補償効果には繋がらないことも、ままあるのかもしれない。

人間だれしも、動機の発端は、トラウマなのかもしれない。言語化以前に、トラウマの存在にすら気づかぬまま、生きている。本能的にそれを代償するベクトルに向かう。欠落。吹雪のなかコートも着ていないかのような。単なる連想だが、たとえば、幼い頃から繰り返し見る夢は、そういうものが反映しているのかもしれない。
そして、ふとこうして整理してみると、プ譜を編み出し、それを合意形成ツールとして提案し、無意識の表出と自己調整を実現するワークフローに特化してきた一連の経過が極めて明晰に説明できるように思える。

ある種のトラウマが、意識的なメタ認知でとらえられてはいないのに、行動に影響している。これは実に考察すべき現象だと思う。非常に興味深い。
万有引力定数を知らなくてもジャンプできたり、絵画理論を学ばなくても、フォーカルポイントに目が行ったり、周波数を知らなくても和音が耳心地良い、みたいな話に近い気がする。
意識には外部がある。外部には原理もある。原理は自らの内部を構成する。生きることのセントラルドグマ。

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