三島由紀夫が命を懸けて守りたかった日本の伝統、文化とは

1960年以降、戦後復興した日本の高度経済成長は著しく、一方で日教組の戦後教育やマスメディアでは、絶対的平和主義を掲げ、反戦平和、平和憲法維持、軍国主義否定、史実を曲げた自虐史観までを是とする風潮であった。これは、当時日本の圧倒的多数の思想を形成していた。大学キャンパスでは、学生が、時に暴力的なデモ活動、抗議行動を起こしていた。やがてこれら学生運動に共産主義思想が加わり、一部は極左集団となり、暴力革命の主導や皇室制度の廃止を訴えた。三島は日本文化の継続性の究極的象徴として天皇制の重要性を主張するが、左派は、三島に対し、日本の軍国主義と天皇を中心とした皇国主義を栄光化するものとして異議を唱えた。昨今映画になっている「三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実」は、当時の空気感を現在に伝えている。1968年、三島は、彼ら共産主義者の暴力革命を阻止する目的で楯の会を発足し、その声明文では、その立場を明らかにしている。

 「共産主義は、日本の伝統、文化、歴史とは相容れないものであり、天皇制に反するものである。天皇は、私たちの歴史的、文化的コミュニティおよび民族的アイデンティティの唯一の象徴である。共産主義がもたらす脅威を考慮すれば、暴力の使用は正当化される。」

日本で共産革命は起こらなかった。戦時下軍隊に入隊出来なかった三島が、当時、日本人の戦死していく様を傍観する事しか出来なかった。そのコンプレックスが、この結論を早くから出していたと思われる。1970年11月25日、三島は、東京・市谷の陸上自衛隊東部方面総監室に乱入し、自衛隊員に向けクーデターを呼び掛けた後、総監室にて割腹自殺した。

一方、共産主義極左集団は、その後、実際に日本赤軍として、1972年テルアブビ空港乱射事件、1977年日航機ハイジャックダッカ事件など、海外でテロ行為を実行している。

三島由紀夫が守りたかった日本の伝統文化、歴史とは何だったのか。歴史の継続性としての天皇制を守ることは勿論ある。加えて、日本が世界に誇るべき伝統文化、芸術があり、その歴史を振り返りつつ、初めて自分(日本)で自分(日本)を褒めたいと思うのです。

先ずは、世界史上の奇跡と言われる日本の歴史上の平和期間です。平安時代の350年、江戸時代の265年です。平和維持において、他国との圧倒的な違いは、日本の島国という地形にあることは明らかであり、そこに勤勉で寛容な国民性が寄与したことも間違いない。

平安時代は、今から1千年以上前、貴族による国風文化が栄えた時代である。中国伝来の漢字から、日本独自のひらがな、カタカナが生まれ、その結果、世界最古の女流作家が生まれた。世界最古の恋愛小説、「源氏物語」の紫式部、随筆「枕草子」の清少納言である。1千年前の女性の文学が現在に残っているのは、いかに当時が平和な時代だったかがよく分かる。しかも、貴族と言ってもさほど高貴な身分ではなく、宮中にお仕えしていた女房の書いた文章であり、かなり自由な時代でもあったのだろう。

ちなみに比較として、当時のヨーロッパでは、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が台頭していたが、トルコ系イスラム国家と戦い、ノルマン人と戦い、十字軍の侵攻と戦い、キリスト教は分裂して東西で争い、正に殺戮の歴史であった。当時のアジア中国大陸はどうか。907年に唐が滅亡し、979年の宋の中国統一までは、五代十国時代という分裂期間であった。五王朝と地方の十国で血みどろの争いが繰り返され、10数年で国が変わり体制が代わる戦国時代であった。新体制は、旧体制を根絶やし、皆殺しとするため、当然、史料もほとんど残っていないが、謀略、裏切り、殺戮の歴史で、好んでこの時代を研究する人もいない。

お口直しに誰もが知っている枕草子の一節を。暗記しておられる方も多いと思いますが、

「春はあけぼの。やうやうしろくなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。」

1千年前の清少納言が見た風景が、春の夜明けの空気感とともに一瞬で脳裡に浮かぶ。誰もが共感出来る四季の季節感、平易であるのに色彩と情景が浮かぶ文章の美意識。1千年の時を経てもなお現在に通じる日本の自然風景、それらを一瞬で共有できる継続性のある日本語とその美しさは、間違いなく守るべき伝統文化であろう。

次に近代世界史上の奇跡、パックストクガワーナ、江戸時代の徳川幕藩体制、平和維持期間265年です。ただ、鎖国下の徳川家世襲の封建制度の下の平和維持でしょうと、突っ込みがあるかも知れない。確かに身分制度はあったが、戦うことが無くなった武士は、精神を鍛え武士道を極めようとした。一方で幕藩体制の安定期に商人、町人が台頭し、財力を蓄え、庶民文化が栄えた。歌舞伎、浄瑠璃、浮世絵など、上方中心の元禄文化と江戸庶民を中心とした化政文化である。当時、天災や飢饉もあり、国内で争っている場合でないこともあるが、日本人の気質が平和に寄与したことも確かであろう。支配者側の幕府としては、思想的に便利な儒教を推奨したが、庶民にはお寺を使った事実上の戸籍制度の意味もあった檀家制度により、日常生活レベルで仏教的な思想、教えが庶民に広まった。儒教の道徳観と仏教の平等性の思想、他者への寛容さ、加えて古来からの自然崇拝であった八百万の神信仰、これ等の良いところを全て融合してしまったのが日本人の気質である。例えば、「袖触れあうも多生の縁」見ず知らずの他人でも生まれ変わった後の世界では何らかのご縁があるかも。困っている人には親切に。仏教的な思想が自然に日常生活に浸透している。また、季節ごとに、雛祭り、灌仏会、花見、端午の節句、七夕祭り、花火、放上会、煤払いなど仏教由来の行事や、お祭りなどの行事が、庶民に定着し、現在に伝わっている。

現在の日本では、初めて来日した外国人が日本人の公共マナーの良さや治安の良さを褒めるが、江戸時代に来日した外国人も、当時の庶民の教養、マナーの高さを記録している。実際に江戸時代には、寺子屋制度があり、身分に関係なく読み書き算盤が教育され、一説によると識字率80%という驚異的な国だった。

このような日本人の気質は、四季のある自然豊かな日本に住む日本人の特質と言っても良い。1400年前の随書「倭国伝」にも当時の日本の姿が記されている。

「気候温暖にして、草木は冬も青く 土地は肥え美しい 性質直にして雅風あり、人すこぶる物静かにして 争訟まれにして盗賊少なし」

江戸時代に生み出された歌麿や写楽などの浮世絵は、鎖国下のなか、オランダを介して輸出していた陶磁器にたまたま梱包材として使われていたため、当時のヨーロッパに伝わり、彼らはその精緻な表現、美しさに驚愕した。19世紀後半にはヨーロッパ中に広まり、ルノアール、セザンヌ、モネ、ドガ、ゴッホなど印象派の画家たちの画風に大きな影響を与えた。日本では、そのような芸術作品を当時20文(現在の400円程度)で庶民が買っていた。浮世絵は、現在のクールジャパン、漫画、アニメに多大な影響を与えたことも確かであろう。

庶民だけでなく、江戸幕府もその力を建築物として後世に伝えている。具体的には、日光東照宮や二条城、桂離宮が挙げられる。

日光東照宮は、1999年世界文化遺産に登録され、その選定理由は、「日光に残るそれぞれの建造物は、天才的芸術家による人類の創造的才能を表す傑作であること」、「日光における古来の神道思想に基づく信仰形態は、自然と一体となった宗教空間を創り上げ、今なお受け継がれていること」と評価されている。

二条城は、1994年世界遺産に登録され、徳川家の歴史、栄枯盛衰を共に見つめてきた貴重な歴史遺産となっている。桂離宮は、世界遺産に登録されてはいないが、日本庭園として最高の名園ともいわれ、日本の美を凝縮した空間として再現している。20世紀を代表するドイツの建築家のブルーノ・タウトは、「それは実に涙ぐましいまで美しい」と絶賛したという。日本建築は各専門家の分業で成り立ち、職人の技量の高さは世界に誇る技術である。近年、日本人建築家の活躍は目覚ましく、建築界のノーベル賞とされるプリツカー賞を米国と並び世界最多の8人受賞している。

 江戸時代の頭脳、異才天才を列挙する。独学で和算を編み出した関孝和。円周率の計算や行列式、ベルヌーイ数などを発見するなどの業績を残した。総合的な科学度、文明度のバロメーターとなる、当時世界最高水準の精密な日本地図を作成した伊能忠敬。コレラ感染症と戦った緒方洪庵。酸素、窒素など元素の名付け親で化学者の宇田川榕庵など。

結局、日本の自然風土に根ざした日本人の柔軟性、寛容さ、協調性、道徳性、手先の器用さなどの特質と美しく多様な日本語を使う日本人が、歴史から受け継がれた伝統文化を継承しており、以降、圧倒的短期間で近代化を成し遂げた奇跡の明治維新に繋がっていく。

戦後75年を経て、当時の左派、知識人、マスメディアが、反戦平和を叫び続け、自虐史観を広めた結果が、現在の中国の覇権主義、韓国の反日運動、北朝鮮の未解決拉致問題を招いたとしたら何と罪深いことか。三島は、当時の空気に逆らい続け、警鐘を鳴らした唯一の知識人であろう。いわゆるインテリ知識人は左派で、右派は街宣車で日教組を糾弾するという一昔前の構図は、確実に変わった。そもそも日本は敗戦国として、戦勝国による不平等な東京裁判判決を受け入れ、当時の指導者は戦争犯罪者として裁かれ、日本のために犠牲となり礎となった。国際法における賠償を行い、多大な犠牲を払いその戦争責任を既に十二分に償い済ませている。欧米列強の植民地帝国主義にアジアで唯一抵抗し、そのアジア人に対する差別意識に抵抗した。更にあえて言うなら、その差別意識から、実行せしめた米国による広島、長崎への実験とも言える蛮行をも、自らの過ちとして受け入れてしまった日本が、これ以上反省や謝罪をする必要はない。ただ粛々と歴史を振り返り将来に備えるのみである。ようやく時代が三島由紀夫に追い付いた。





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