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システムが主役

個人店が生き残っているのは、ごく一部。全国津々浦々、どこへ行っても全国区なフランチャイズ・チェーンやコンビニばっかり。それも地方へ行けば行くほど選択肢が少なくなる感じ。三浦展さんの「ファスト風土」という警告もはるかに昔のこと。今た忘却の彼方。

今もこのファスト風土は確実に増殖していっている。

ドトールやスタバなどのカフェ、マックやモスバーガーみたいなバーガーショップ。吉野家、松屋などの牛丼チェーン。ローソンやセブンイレブンみたいなコンビニ。「ファスト風土」の主役たちは「システム」だ。「人」がいても、彼は、そこがバーガーショップだとしても、ハンバーガーのプロフェッショナルでもなければ接客のプロでもない。だから、あしたは100円ショップでレジ打ちをしているのかもしれない。

(店を運営しているのは匿名のカオナシだ)

物販にしても、チェーン店の主役はデザインされた店舗運営ノウハウと、スタッフが憶えるべきマニュアルと、店舗運営にスタッフさんの人間らしい判断はない。コントロールしているのはマニュアル、つまりシステムだ。もちろん販売されている商品やサービスの開発についても、現場は無縁、ノータッチだ。

「人間味」は不在だ。そこには利便性だけがある。喫茶店なのに「喫茶」が不在だ。だから「街が何を失ったか」も、誰の目にも鮮やかだ。

なのに人々は「人の息吹」がない街にもの言わず暮らしている。

だから、行政が規制をかけているわけでもないのに全国津々浦々で「同じような結果」が出ている。全国津々浦々の「街」が金太郎飴のようになっていく。もちん「街」だけではない。僕らの心も「金太郎飴」にされていく。僕らは与えられたわずかな選択を選ぶことだけに自由を見出すだけでも、無抵抗に生活を続けている。

便利だからだ。

個人店が提供できるコーヒーの値段に、消費者が支払える金額が追いつかないんだから仕方がないという人もいるし、もとより「モダニスムとはそういうことだよ」という人もいる。全国どこに行っても同じサービス、商品が提供されるんだから「安心でいい」という人もいる。

でも「最大公約数」という、実はどこにもいない人間に合わせてデザインされたシステムに「帯に短し襷に長し」といった居心地の悪さを感じ続けて、結局は、私を自らが剪定し、ついには「カオナシ」になっていくことを強いられる理由はない。

今。全国区のフランチャイズ・チェーンにも見放されたような商店街に、若者がお店を開いてくれている。

等身大の個人が、その店でパンを焼き、接客する。こういう店に「本部」という「会議室」はなく、すべてが「現場」の裁量だ。

「街」が息を吹き返していく。店と来客の間に「会話」が戻ってくる。

もちろん苦戦している店も少なくない。でも、この店は彼の店だ。つまり、空疎な表層だけがあるのではなくて、この店には「人間」という「芯」がある。

システムな店は「便利」かもしれないが、何度通っても「常連」にはなれない。自分の居場所にはならない。できたとしたら、自分がすでに「カオナシ」になっているということだ。

若者が開いたお店のうち、何店舗が生き残れるかは不透明だ。だけど、次の時代の街は、こうした店舗から始まっていく。

だって、再開発な街並みは、人を冷たく突き放すものだから。

彼らを応援しながら、期待して待とう。