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居心地と「壁」

妙にクリアー、つまり、デジタルな音でもなく、かといって真空管アンプの温かみのある音でもない、ご店主は「脱サラ」な感じ。いかにもキャリアが浅い感じ。オリジナル・ブレンドの味に自信があると語り、「リクエストは?」を含め、やたらと話しかけてきた。ここはJAZZ喫茶なのに。

でも、いかにもアマチュアな感じのJAZZ喫茶に、僕は和んでいた。

そういう店ならばこそ、昔の「おしゃべり厳禁」な雰囲気はまったくなく、真後ろの席からは、ご近所の常連さんらしき人が、時事談義しているのが聞こえてくる。往年のJAZZ喫茶に比較すれば音量はぐっと控えめ。スピーカーに正対する、足掻きの悪い一人がけの椅子と小さいテーブルが並んでいるわけでもなく、少しBGMが大きな昭和喫茶のよう。あの頃のJAZZ喫茶のように、暗く、重く、煙っており、排他的だった雰囲気はまったく無し。

僕は久々のアナログ盤を楽しんだ。

でも、カウンター席に陣取るオジさんたちには、往年の「村人」っぽい感じがあったな。会計をするとき、頭のてっぺんから足先までを「検査」される視線も感じた。

ネット上には「住宅街の中にある」とあったが、それはライターさんの誤解だった。あれはダウンタウンの店と工場と住居の混在地域。確かにここは丘の手だけど、むしろ気質は「下町」。そんな街にある店で、ご店主も「解放」的に雰囲気をつくられているのかもしれないけれど、ご近所さんが、その空間を「村」化してしまっていた。

この店には「常連」と「一見さん」とを隔てる壁があった。

「都会」

寂しいんだろうな。だから、「知った顔」にしがみついちゃう。毎日、話がしたいし、この「居心地」を他の人に取られまいとしてしまう、無意識のうちに。こういうお客さんとっては、ご店主と他のお客さんが、軽口を叩いているだけでも、嫉妬なんだろうな。

東京の「下町」っていっても、イマドキは浅草の喫茶店でモーニングに隣り合う、おじさんたちだって「東京初代」な人がほとんど。話を聞いていると今や故郷に帰る場所とてなく、高齢になってこそ、東京を漂流している感じ。単身の人も少なkない。

何があったのか。
次に行ってみたら、もう、そのお店、なかった。

(そういえば、ご店主も「よそ者」らしかったなぁ)

あの「常連さん」たちはどこに行ったのか。
近くに「喫茶店」的なお店はなかった。

少しだけ心配になった。
ご店主も「ここに居つこう」と思っていたのかもしれないし。