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キューポラのある街

この作品は浦山桐郎監督の監督デビュー作。主演の吉永小百合さんは当時16歳か17歳。その吉永さんが、この作品でブルーリボン賞など主演女優賞を総なめにし、今日に至る大女優への道を歩み始めたという作品。

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「キューポラ」とは溶解炉のこと。つまり「キューポラのある街」というのは、当時、鋳物の街として知られていた埼玉県川口市のこと。吉永さん演じるジュンは中学3年生。典型的な「貧乏人の子だくさん」家庭で物語は弟が生まれたとたん、お父さんが失業してしまうところからはじまる。

僕がこの作品を初めて観たのは、もう30年以上前のことになるけれど、その頃は、この「貧乏」が遠い昔のことのように思えたもの。でも、勤め先の会社が売却され、その際の整理要員としてリストラされるジュンのお父さんという像は、2019年の現在、再び「リアル」になった。
この映画が公開された1962年当時は1957年に成立した岸内閣から、その後継の池田内閣という時代。岸内閣を組閣した岸信介氏は安倍さんのおじいちゃんだが、この系譜に連なる政治家たちは、たぶん「勤め先の会社が売却され、その際の整理要員としてリストラされるジュンのお父さん」みたいな存在をあまり気にしないし、知りもしない人たちなんだろうと思う。だから、安倍さんも、いつだったか「パート月収25万円」発言で話題になり、そして、彼が長期政権を率いる今「リストラされるジュンのお父さんという像」は、不気味に息を吹き返してきた。

一方、この時代から遠い過去に感じられるようになったには、全日制の高校への進学を諦めたジュンが、ラジオの組み立て要員として工場に就職し、定時制の高校に進学することに希望を見いだすという、その感覚だろうか。

同じ状況があっても、今は「希望」を見出すことができない。

今、ライン生産の工業生産に将来を見いだせる日本人はいないだろうし、「進学」が「明日を切り拓いてくれるもの」という認識も急速に過去のものになりつつあるように思う(高卒にも大卒にさえ、あの頃のような付加価値を見いだすことはできないのだと思う)。

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あの頃、工場のライン生産現場に働く人たちは自分を失業されるために働いていた…一生懸命に働けば働くほど、会社は儲かって、儲かれば、会社は省力化のために設備投資をする…だから自分の働く場をなくすために働いているんだという皮肉な構造。それだけは変わらないのかな。会社に儲けをもたらせばAIによる無人化への設備投資を加速させる。

結局「長いものに撒かれる」が正解ではなさそうだし、蛍が甘い水を目指すようにすることに希望を見いだしてはならないということなんだろう。誰かを信じて裏切られて、だからといってジュンのお父さんのように飲んだくれていてもしょうがないんだろう。誰も救ってはくれない。

美味い話しには俊敏に乗っておこう、乗り遅れまいとする…というのも、もう過去の「方便」。これから先も、そのコンセプトで進んで行こうとすれば、さらに(自由になる)時間は奪われ、紋切り型のひな形に押し込まれ、その上で収入は不安定になる。

映画「キューポラの街」に描かれている「閉塞感」の部分は、これからの時代にこそリアル。勉強になると思う。あえて労働者の視点で観るべきだ。

「キューポラのある街」 監督 浦山桐郎 
出演 吉永小百合/浜田光夫/東野英治郎/加藤武 他 

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