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妄想力

物語=フィクションは人間の原点でもある。

サバンナでは、からっきし弱っちかったサルの1種が、現在の人間にまで至ったのは、そのサルの「妄想力」に拠ったのだという学者さんもいる。

考えてみれば、あの高層ビル群も、物理的な形を伴うものの人間の創り出したフィクションだ。自然に生えてきたものではないし、「図面にする」までは頭の中にあるイメージ、つまり妄想だ。

「遅刻」だって立派なフィクションだ。公園のカラスに「遅刻」はない。人間が創った社会システムがあって、社会がそのシステムに拠ってなければ「遅刻」はない。「怒られる」を体感する自分の気持ちはリアルでも、「遅刻」はフィクション。だからリモートになれば「仕事をする」から、あっさりと「遅刻」は無くなる。ちょっと前まで「遅刻」は絶対ダメ。ゆえに、あの憂鬱な満員電車に忍従させられてきたのに。

元旦に初詣にゆく。その元旦は江戸時代までは12月だったりするし、「初詣」自体が、明治になって電鉄仕掛けで始まった、閑散期を穴埋めするためのイベントに由来するものだったりする。恵方巻きにもさしたる由来があるわけでもなく、やはり「海苔」が売れなくなる時期のテコ入れ策だし、ヴァレンタインはチョコレートの販促キャンペーン。

行政が行う成人式を主催するのは、たいていが「選挙管理委員会」。つまり「成人式」は成人を祝う式典ではない。「投票へ行こう」の啓発活動。だから20歳が成人だった(最近までね)。それだけの話し。「20歳」に「成人になった」の論拠はない。

僕らは、案外、フィクションの中にどっぷり浸かって、そのフィクションに誘導されて生きている。

「みなとみらい」あたりは、遠浅の溺れ谷か海の中で「リアル」なんだろう。現在の高層ビル群も、その前段のドックも人間が描いたフィクション。だから大地震という「リアル」には弱い。

(少なくとも敷地の半分は軟弱地盤の上に乗る横浜市庁舎は、次の震災に保つのかどうか)

すでに阪神淡路の震災で土木なフィクションの危うさ、不自然さに、僕らは充分に恐怖したはずだ。でも喉元を過ぎれば、その熱さを忘れる。そして、東日本大震災が「原子力発電」という途方も無いフィクションの脆さ、不自然さを暴いたのに、それも。

でも、まだ懲りてはいないのだ。
すでに暴走ぎみの「妄想」を、本格的に疑ってみることをしない。

しかし

フィクションの弊害は「不自然さ」だけでなく、人間の想定をはるかに超えて、僕らのメンタルをも犯し始めている。

例えば

「お金」というフィクションに縛られて、実際に生活が立ち行かなくなり、自死を選ばざるをえないとか、システマチックな生活や人間関係が呼び込む「うつ病」や「パニック障害」など

すでにフィクションに生身の人間が押し潰されそうになっている。

繰り返すが、僕らの原動力になってきた「妄想」は、すでに「身の丈」を遥かに超え、暴走を始めている。「妄想力」を原動力に進歩、進化していく僕ら。そろそろ限界に達しているようだ。

そして、「妄想」は、自然という地球環境も置き去りにしつつある。「原子力」はその象徴だ。

「妄想」が「貨幣」を産み、「貨幣」というフィクションがビジネスと結びつき、杜をまた切り倒して、殺風景で、威圧的な「まち」というフィクションに塗り替える。人々はCMというフィクションに誘導されて、フィクションの「まち」を「現実である」と錯覚していく。

これが「暴走」でなくてなんなのか。

そのうち、ゴーグルをつけた親子が、なにもない高架下で、ヴァーチャルに再現されたテーマパークに遊ぶような時代がくる。その前に、僕らは、僕らが体感している「現実」だと思っている自分を顧みてみた方がいい。

それは自然現象なのか、不自然なのか。
そこに風は吹いているのか、雨は降るのか。

そこに、どんな弊害があるのか。

鉛筆削りがあるだけで、ナイフで鉛筆を削ることができなくなる。蛇口をひねれば水が出てくるなら、井戸を掘ることもできなくなるし、井戸で水を汲むコツも見失って、近隣で上水道を管理するマナーにも未経験になる。

便利で楽ちんは、ただの「便利で楽ちん」ではない。僕らが生活していく上で、本当は必要不可欠な技術を奪い、人と人の協働のノウハウを奪っていく。そして、自然環境への配慮を失わせ、僕らが地球という生命の一部でしかないことを忘れさせ、つまり僕らを傲慢にする。

東京都心の高層ビル群は、すでに海風の流通を阻止して、東京都心の気温を上げ、フクシマの原発事故には終わりが見えない状況が続き、つまり、今も現場は一触即発の状態にある。

「妄想力」を「フィクション」を原動力に、利便性だけを追求しながら人間の社会を構築していく。

僕は、そういう僕らを顧みてみた方がいいと思っている。