僕が18歳だったのは1979年のことだから、ぎりぎり70年代ということになる。その頃の大学進学率はだいたい38%。中卒、高卒でふるさとを離れて大都市に働きに出る、いわゆる「金の卵」といわれたみなさんのための集団就職列車は数年前には廃止されていた。
でも、この頃の大学進学率は1976年をピークに少しずつ「減る」傾向にあった。大学に進学する人も大都市に集中していて、地方では38%とはほど遠い状況にあった。
まだ、地方と都市の間には大きな格差があって、親御さんの所得についても大都市が圧倒的に優位。しかも地方においては在来交通機関も未発達。同じ都道府県内の大学に通うにも下宿しなければならないという、そういう事情もあった。
70年代末に38%だった大学進学率が反転して40%を越えるのは93年。たった2%、大学進学率が上がるまでに15年ほどの時間がかかった。
でも、その後はうなぎ上りで2005年には大学進学率も50%を越える。
90年代中頃から、都市にも地方にも、あれよあれよという間に新しい大学が創立されていった。既存の大学にも、新設学科の創設が相次いだ。進学率38%時代に、大学進学を考えていた僕にしてみれば選択肢がどんどん増えているように思えた。
なんか、器の方が勝手にデカくなっているような感じ。A.O入試なども導入され、入試のハードルも、どんどん低くなっているようにみえた。
(まるで、ハーレーなどの売り上げを上げるために、アメリカからの要請があって大型バイクの免許取得が急に楽になったのに似て)
でも、すでに大学進学率が50%を越える頃には
「これからは少子化だから大学もサバイバルの時代だ。生き残りをかけての闘いが始まる」なんていうこともいわれ始めていた。
校舎もどんどん増設されていたのに、なんか、マッチ・ポンプな感じだなと。進学を志望する若者の半分が大学に進学するようになって、そんなに大卒のやるような仕事があるのかなとも思った。
(大卒の行き場がなくなり始めてもいて、某自治体の採用試験でも高卒相当の試験に、大卒が大量に流れ込んでいて問題になったことがあった。そういうことが横行するなら、今度は高卒の人が弾き出されてしまう)
だいたい、大学に進学できるかできないかは、本人の実力というより、親やその方が生まれついた「家」の経済力の問題。学生本人の実力は、二義的な問題だ。
(もう20年以上も前に、津田塾の英文科に行っているという女の子に「そんなに不況だっていうんなら、お札、いっぱい刷っちゃえばいいじゃないですかぁ」といわれてぶっ飛んだことがある)
大卒といっても、あの頃から大卒の実力は、多くの場合、こんなもの。
自分の専門があっても、幅広く深い教養の上に、それを乗せるというのが戦前の学士だったようだが、戦後は「専門のことしか知らない」から「専門のこともおぼつかない」へ退化していったように思う。同世代でも法学部に行ったから法律に詳しいとか、経済学部に行ったから経済に詳しいというヤツに会ったことがない。
(数年前に、アイドルを研究しているという学生さんに、小泉今日子さんがアイドルだったとを知らないと言われたこともある)
でも、大卒と高卒じゃあ、明らかに給料も違えば、就業の窓口が開いている職種にだって違いがある。
1980年代末から90年代のはじめ、全国津々浦々で、誰がどうみても運営不可能な文化施設、つまり箱ものが、じゃんじゃん造られ、それが限界に達すると、都心部の大学に、これまた、どうみても不要不急な超高層の校舎(学舍っていうのかな)が造られ、地方には、ボコボコと新しい大学がつくられた(あの加計学園の岡山理科大の獣医学部・今治キャンパスのような)。で、今もこの流れは止まっていない。
そういうことで、誰かのための仕事をつくり出せたんだっていう人もいるかもしれないけれぢ、それは、ピンハネどころか、「ピンくれ」ぐらいのことでしょう。それなのに、公的には膨大な借金まで背負い込むことになった…
そして、若い人たちが翻弄されていく。
そろそろ「大学なんだから行くんだ」を卒業して、「大学教育」ってなんなんだろうって真剣に考えてみる必要があると思う。
きっとね。「丸投げ」に過ぎたんだよ。
そういえばニューヨーク市立大学のコミュニティ・カレッジに通う70代のおばあちゃんがいたな。
(ニューヨーク市立大学には10年をかけて卒業する人が、たくさんいる。ニューヨーク市立だけじゃなくて、欧米の大学なら、そう珍しいことではない。で。僕も大学院に進学したのは50歳を過ぎてからだ)
コミュニティ・カレッジって、高校までの教育を補完するところであり、職業についてをより深く考えてみようというカレッジで、アカデミックな教育の場ではない。「コミュニティ」ってくらいで「地域住民」のための教育機関でもある。
そういうの、なぜだか日本にはない。
だからね。
考えてみようよ。言われたとおりに従うんじゃなく。
そう思っている。