どこまでが「お芝居」なのか - ペーパーマリオRPG for Switch
「ペーパーマリオRPG」リメイク版の演出に関するメタ解釈
本作をクリア済みの方が対象
演出が異なるゲームキューブ版には適用できない部分あり
読了時間:約8分(約4000字)
観客システムがバトルを「お芝居」にする
観客システムの役割
観客システムと言えば、「ペーパーマリオRPG」のバトルを面白くしている要素のひとつである。過去作である「マリオストーリー」にもアクションコマンドは存在していたが、あくまで攻撃と防御のためのテクニックでしかなかった。しかし本作ではアクションコマンドやアクロバットの入力によって観客を盛り上げ、それによってバトルを有利に進められるというシステムへと進化している。
またバトルが行われるステージ自体もギミックとなっており、天井の照明が落ちてきたり、背景の大道具が倒れてきたりする。これらのシステムにより、基本ターン制バトルでありながら、アクション性も求められる・・・というのが、ゲームシステム上の一般的な説明になると思う。しかし、この記事で取り上げたい話題は、そういうゲーム上の役割ではない。
この記事で明らかにしたいのは、演出上の意図である。つまり、観客システムなどのメタ演出を通して、何を表現しようとしたのか。
今回の話の結論はもしかすると、本作のファンの方であればあるほど、受け入れがたいものになるかもしれない。実のところ私自身もそうなのだが・・・。とはいえ、その結論を受け入れたとしても、私が本作の世界を愛していることに変わりはないし、作品についてより深く考えることにつながったとも思うので、書き残しておきたい。
観客はどこにいるのか
彼らは当たり前のようにマリオたちの戦いを外から観戦しているが、そもそも彼らはどこにいるのだろうか。つまり、マリオたちの冒険に実際についてきているのか、それとも我々と同じように世界の外から眺めているのか・・・という疑問である。少なくとも前者はありえないだろうが、よく考えると後者もおかしいことに気づく。
理由はいくつもあるが、分かりやすい例としては「観客を攻撃するボス」の存在である。1面ボスのゴンババ、5面ボスのコルテス、ラスボスのカゲの女王など一部のボスは、安全圏にいると思われた観客たちに無慈悲な攻撃を加えてくる。しかもそれに対して仲間が憤慨する描写もあるので、マリオたちも観客の存在を認識していることは確かだ。
つまり、このバトルの状況すべてが「お芝居」だと考えるしかないのである。そうでなければ、舞台装置のギミックについても説明がつかないし、世界の命運をかけた戦いの最中にマリオがのんきにアピールしていることも説明できなくなってしまう。
ちなみにバトルの際にはルイージも観客席にいることがあるが、劇中の設定では彼もまた別の地方に冒険に出かけていることになっていたはずだ。つまり設定を破って観客席にいるわけだが、しかしだからと言ってルイージがウソをついていたという話ではなくて、このバトル空間全体が「お芝居」であると考えればいいだけだろう。
なぜマリオは左にいるのか
バトル画面でマリオは常に左側にいるが、これはこのゲームが「左から右に進むゲーム」だからだろう。このゲームにおいてマリオたちは基本的に左から右に進んでいく。おそらく2Dマリオの伝統にならってのことだと見て間違いないだろう。
なぜ右ではなく左なのかという点を突き詰めると、映像の原則だったりゲームコントローラの入力のしやすさの話につながるのだろうが、本筋から離れてしまうのでここではやめておく。とにかく本作のほとんどのエリアでマリオたちが左から右に進んでいくことは事実である。
「お芝居」なのは、バトルだけか
なぜ奥行き方向の移動は少ないのか
同じペーパーマリオシリーズの「マリオストーリー」や「オリガミキング」などでは奥行き方向の移動はありふれている。本作でも無いことはないのだが、明らかに少ない。過去作である「マリオストーリー」のほうが奥行き方向の移動は多いのだから、技術的な制約などではなく演出上の意図があると読み取れる。
本作の数少ない奥行き方向の移動として代表的なのは、1000年のトビラ、ゴロツキ港、ウーロン街、ピカリー神殿などだが、その多くがシナリオ上で重要な場所であったり、奥に進むこと自体がギミックに関わっていたりする。逆に特別な意味がない限りは、奥には行かないようになっていると言える。
フィールドも「お芝居」なのか
先ほど本作のバトルはすべてが「お芝居」であると述べたが、フィールドもまたそうだと言ったら、どうだろうか。もちろんバトル画面と違ってフィールドに観客はいなかったし、照明が落ちてきたりすることもないが、もしフィールドがすべて「お芝居」の舞台の上なのだとすれば、少なくとも奥行き方向の移動が少ない理由は説明できる。それだけでは納得いかないと言われるかもしれないが、実はそれだけではないのである。
メタ演出をメタ解釈する
新しいエンディングの演出
本作のエンディングは、敵も味方も問わず登場したキャラクターたちがみんなで舞台の上を右から左に行進し、最後に観客と演者が一斉に我々(画面の前のキミ)に向かってアピールする、という内容である。これは実はゲームキューブ版のエンディングとは全く異なっていて、リメイク版の追加要素のひとつである。
もちろんこれ自体が本作のすべてを「お芝居」にしてしまうわけではない。あくまで「このエンディングがお芝居である」ことを意味しているだけだが、オリジナル版よりも舞台を強調した演出になっていることは確かである。
NPCのメタ発言は、ただの「お約束」か
RPGにおける「お約束」と言えば、キャラクターのメタ発言である。本作でもいくつかのメタ発言が残されている。
もちろんこれらは単なる「お約束」なのだから、これだけをもって大真面目に「すべてがお芝居だ」と言い出すのはナンセンスだが、少なくともバトルとエンディングは「お芝居」だったわけだから、メタ発言に対しても深読みしたくはなる。
ステージによってデザインの異なる「月」
今作のステージの背景はどれも個性的なデザインで楽しませてくれるが、その背景の中に見られる「月」のデザインもまた、ステージによって大きく異なっている。
しかしよく考えたらこれはおかしい。マリオの世界にだって月はひとつしかないはずだ。地域ごとの条件で多少の見た目の違いはあるかもしれないが、これはそういうレベルではない。これもまたフィールドが舞台装置であることを示唆している例である。
ランペルの名前を入力するギミック
まだまだある。4面ボスのランペルの名前を入力するギミック。これはオリジナル版から存在しており、名前を知っていても「ン」の文字が無いと入力できない、という冗談のようなギミックである。正直、真面目に解釈しようとすると手に負えない気がするからやめておくが、重大なメタ演出のひとつではある。
ランペル自体の元ネタはおそらくこちらのグリム童話の妖怪から。
クラウダの舞台
最後の例として、クリア後のクリスチーヌの手紙の中で紹介されるクラウダの舞台がある。舞台女優として復帰したクラウダがマリオとの冒険を題材にして作ったそうだが、これも非常にメタ読みを誘う内容である。
小説のラストで「今までの文章は登場人物の手記でした」と明かされるような、ありがちな締め方。もしや本作もそうなのでは、と。ただしもちろん、本作のすべてがクラウダの舞台だったというのは無理がある。クラウダの舞台ではランペルがマリオ役をやっているというから、我々のステージ4での戦いは何だったのかという話になってしまう。とはいえ、先ほどのエンディングの演出と同じく、舞台を強調する内容ではある。
2Dでも3Dでもない「紙」グラフィック表現
結局、本作のすべてが「お芝居」だったと断じるつもりはないし、できないだろう。多くの演出により示唆されていることは間違いないのだが、そもそも冒頭で述べた通り、この記事の目的は演出意図を明らかにすることであって、別にすべてが「お芝居」だと示したいわけではない。むしろ私自身はこの作品がもし「お芝居」であったとしても、すべてのイベントとキャラクターの心は「真実」であってほしいと願っているのだから。
演出意図を理解するうえで参考になるのが、ペーパーマリオの原点「マリオストーリー」が生まれた経緯である。「マリオストーリー」は、かの「スーパーマリオ64」と並べて売らなければいけないタイトルであって、3Dグラフィック以外でそれに見劣りしないデザインとして生み出されたと公式に語られている(下の記事で言及あり)。
「オリガミキング」では洗練された紙の表現とリアルなライティングが調和した画面の美しさが際立っていた。リメイクされた本作「ペーパーマリオRPG」はその流れを汲みつつ、独自のグラフィックに演出上の意図を重ねることで、唯一無二の表現へと昇華させていると言える。
現在の3Dグラフィックの進歩はめざましく、もはやロクヨンの時代とは比較にならないほどだが、そうした中でこそ独自の「紙」グラフィックは、ハイエンドなCG表現に対するアンチテーゼとなっているのかもしれない。(終)
あとがき
ゲームキューブ版を何周もした思い出深い作品のリメイクでした。シナリオ演出(メタ読みではなく)について語ろうかとも思ったのですが、今回のプレイで一番印象に残ったのはグラフィックだったのと、エンディングを見た瞬間に「あっ」となったので、書くならその話だろうと思い。マリルイの新作も楽しみにしています。
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