心の限界(最近の実体験)

気がついたら身体の異変を感じていた。
そこまで気にしてなかったことがすごく気になる。近くにいる人が自分のことを不快に思っているのではないか。
ネットで調べてみると不安症というらしい。振り返ると学生時代からあったが大分落ち着いていた症状がここ数ヶ月で一気にひどくなった。
鶏が先か卵が先か、身体のSOSは心にもつながる。ひとが周りにいる環境にとてもストレスを感じ、数ヶ月前まであんなに好きだったサウナ、またカフェでゆっくり過ごすこと、気心しれた友人と飲み屋に行くことにも、足が遠のいた。幸いにも気軽に電話できる友人や家族がいてくれ、孤独感をそこまで感じずに済んだことが救いだった。
原因はおそらく、というほぼ間違いなく過重労働。振り返ると年明けから平均して120,30時間の残業が5ヶ月間続いた。
そして少しでも空いた時間には資格試験の勉強をして、休みの時間はほぼなかった。
ただ不思議なことに、その渦中にいるときは心身の異変を明確には感じず、何か行動を起こすには至らなかった。
私は他人のことと同じくらい、いやそれ以上に自分のことを気にしている。嫌だと思ったら早々にアクションする方だと思っている。
ではなぜ今回このような状態になるまでなにもできなかったのか、しなかったのか。
それは、自分のキャパシティとしてのコップに急激な勢いで水を注がれることがなく、徐々にしかし着実に注がれつづけられたからだ。業務内容も合っていると感じつつ、尊敬できる上司部下に囲まれ、周囲の人に対して不満もそこまでなかった。
一方でいまの仕事や生活は自分で選んだ道で転職して1年目ということもあり、しんどくてもここが踏ん張りどころだと思っている節はあった。
そんな明確に不満やストレスを感じる場面が少なく、自分の経験不足によってのみ、労働時間が長くなってしまっていると思いこんでいたため、自宅でも積極的に仕事をしていた。
ただ、冷静に考えてそんな生活を継続することなんてできない。身体と心は着実に追い込まれていっていた。
そして気づいたときには、自分の調子をすぐに戻せない状態になっていた。
元に戻そうと色々と考えても結局、すぐには戻らない。その現実を感じると、わかりやすく絶望感に苛まれた。
そんな折、電車に長時間乗っているのも苦痛だが、思い切って実家に週末帰った。
こんなぼろぼろでネガティブな雰囲気を纏って、30歳になった男、両親の言動によってもしかするともっと落ち込むことになるかもしれない。そんな不安を少し抱えていた。
しかしすぐにその不安は晴れた。
歳を重ねた両親が昔と変わらぬ愛情で迎え入れてくれたのだった。
実際に言葉でも示してくれたとき、不覚にも涙が溢れた。いつまでたっても自分は二人の子供で、ずっと愛してくれてるんだと改めて感じさせてくれたのだった。
大きな安心感、それを二人が与えてくれた。
翌日、確固たる意思をもって出勤した。上司何人かに時間をもらい、今の率直な思いを伝え、目先で心理的負荷のある仕事を二つ減らしてもらうよう伝え、動いてもらった。
そして翌日、有給休暇も取得した。
どこかではわかっていたが、自分が考えてるよりもそれは簡単なことで、希望通りの対応をしてくれた。ただほかの人にとってはすぐに忘れさられるような、まして会社にとっては何でもないことも、私にとっては、大きな一歩に感じた。
これまで社会人経験の中で、できません、やりたくないと明確に言葉にしたことはなかった。サラリーマンである以上、そういうべきではないと思っていたし、やりきった先に成長があると信じていたからである。
きっとそれは間違っていないのだろう。ただ、無理をして途中で倒れられるほうが社会人としては失格といまは身をもって体感している。
そして自分にとってもつらいだけでなく、会社において自分の代わりなどいくらでもいるが、家族や友人にとっては自分しかおらず、まわりを悲しませる結果をうむ。自分は自分だけなのである。
頭ではわかっていたがつもりでも、いっぱいいっぱいで働くなかで視野がせまくなり、大切なことを見失ってしまっていた。
一度受けた心身のダメージをすぐに回復させてることは難しいが、いまはとにかくどんな自分も自分と受け入れて、無理をしないように少しづつ自分のペースを取り戻していけたらと思っている。
焦らず、ゆっくりと、気にしてもしょうがないというマインドをもちつつ、それでも気にしてしまったとしても、自分を責めずにこれから生きていく。

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