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女子力・・・その後

2年くらい前に「幸せなひとは決して読んではいけません」で2本ほど記事を書いた。

お時間がある方はよろしかったらご覧ください。

上記のように2年前は思っていたのだが、その後少し心境が変わった。

まず、私がどのように思っても、昭和の概念を少なからず引きずった女子力が高いひとびとは、私には関心がないということを悟ったのである。私の尊属(母とか)の死には関心があっても、多分独身老人女性の私の死には関心がないと思う。私の尊属が死んだときに、私の存在をその後考えなくてもいいように、女子力のあるひとびとで結束して排除してくるのではないかと予想している。

というのも、私の一族というのは、少なからず「毒親」系統というか、他人のことには究極的には関心がないひとびとではないかと思うからである。詳細は省くが、私の母も私の心には関心がない。今は年取って自分の生存に私が役に立つので、それなりに使っているといったところだろう。

私の血縁のひとびとも多分そうであると思う。女子力を発揮して「彼氏」ができて「ひとなみに結婚」して「夫の姓になり」、「子どもを産んで女の幸せ」というところまでは、いったん遊園地に入ったらやはりジェットコースターには乗りたいよね、というノリなのだと思う。

ここ2年くらいでさかんにいわれるようになったのは、「多様性」ということなのだが、多様性とか政治くさくてめんどくさいからイヤ~と思っていても、子どもがいるとどうしてもその子が多様性があるのであるから、逃れられないか、「毒親」として無視するかしかなくなるわけである。

この国のひとは一見おとなしいようでいて「みんながそういうから」とか「いままでずっとそうしてきたから」とか「私は弱いから、あなたは強いけど(だからひとりで生きていけるんでしょう)、弱い私は許して」という思想にすごく親和性がある。濃密ないじめをしてもみんなでやれば歴史からも消せると思っているところがほんとうにある。

でも、そうだろうか?この世に植物は沢山あるが、チューリップには鳳仙花の気持ちはほんとうにはわからないと思う。種、球根、あるいはもっと他の方法で子孫を残したり、あるいは、特に子孫を形あるものとして残さなくても、自分が残っていくという方法もあるかに見える。

私は、人間も生き物であるかぎり、多様性の観点からいうと、女子力があるもの同士で、「こんなにオンナとして輝きました」といくらデータを出しても完結しない部分というのは出てくると思う。同じ人間で身体が女性のものでも、「あのひとは女子力がないから、外しても関係ないよ~」という生き方では、子どもを作っても、かなりの確率で行き詰ることもあると思う。

正直、還暦を過ぎるまで、この国で散々差別されて、心身ともにくたびれた老人としては、もはや、男も女もLGBTQもあまり気にする気力がないのである。自分がいかに悲惨ではない死に方ができるか?それは明日か?とかいう方向に気持ちが向いているのである。

この世に親にならずに死ぬ人間は多いが、子どもでなかった人間というのは私の知る限りまだいないようである。一種の生存競争で、「女子力」を選択したひとには、女子力村だけでやっていける未来には限界があるだろう。子どもを産みさえすれば、すべて解決するという考え方もあるのだろうが、それならば、どうして、こんなに少子化とか高齢化とか社会問題になるのであろう。

この国では、自立できないわずかな収入からでも、単身のひとには重い課税がなされる。若い頃東都で単身で暮らしたことがあるが、収入は9割までは自分の自由にはならず、額面が18万円くらいあっても、「お小遣い」的には6000円くらいであったと記憶している。私は五反田の東急で500円のブラウスとスカートを買って、友人と出かけたりしたものである。

若いということは、惨めであることをなかなか認めたくないという特徴をもつものである。それはそれで大変勇敢なことだが、惨めは惨めなのである。今でも、そもそもが女子力がなくなった私を作った基である「男子教」というものに対しては複雑で重い感情がある。

つまり、「女子力」は、そこから漏れた女性にとっては、遺憾な気持ちか、あるいは、そこから排除されたただの風景であるのだ。

だからといって、女子力から漏れた存在が女性の心がないとか、女性の苦労が分からないわけではないのだ。「分からしてあげない」という世間の力に「分からないことにしてあげている」だけなのである。

私にも女性の生き方に関する感想というものはあるが、それはなかなかきちんと言葉にできずに(いったら「で、子どもはいるの?」ときかれそう)死んでいくんだと、今の社会を見ていて思うよ。

ぱなせあつこ



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