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32才で病気になって仕事辞めて、以降無職になった私の半生🍰


タイトル通り、
自分でもこんな人生になるとは思わなかったので、
誰かが私の話しを読んで、
何か少しでも感じて貰えるものがあれば嬉しいな、
そんな思いで書き始めてみる。

まさかこんな人生になるとは、
と最初に思ったのは高校一年生の時。

初めていじめに遭った時だった。

きっかけは些細なことで、私がその子を睨んだ、
とかそんな理由だった気がする。
実は今でもはっきりとした理由は分からない。

言いがかりも甚だしいと今なら思うが、
当時の私は自分の目つきがそんなに悪かったのか・・?
と自分を責めたりもした。

一部ではあったものの、多数の人間から
ブスやらキショいやら罵詈雑言を浴びせられたり、
嫌がらせを受けるのは、とても苦しいものだった。

中でも、
私の数少ない友達には親しげに挨拶したり話しかけたりするのに、
その場にいる私の存在を一切無視するような扱いを受けるのが、
一番傷ついた気がする。

いじめっ子って、
あんなに小賢しくて、平気で人を傷つけるのに、
何故あんなにたくさん友達ができるんだろう?
それは未だに不思議に思っている。

そんなことがあったので、
地元で進学するつもりだった自分だが、
逃げるように、誰も見知った人がいない県外の地で、大学進学することを決めた。

普通は偏差値やら得意な分野などで進学先を決めると思うのだが、
知り合いが行かなさそうな大学を見繕って、
その中から進路を選ぶ高校生は、少し珍しいだろうと思う。

そんな娘の心中は知らずとも、
その時、県外の大学に進ませてくれた親には、
今でも心から感謝している。


人間関係にトラウマを抱えていたので、
ほとんど人と関わらないという特殊なキャンパスライフを送っていたが、
それはそれで、私の人生を豊かに彩ってくれる、
一つの通過点にもなった。

大学というのは想像以上に自由なところで、
自由すぎて最初は単位を落としまくって留年の危機を迎えたりもしたが、
友達を作るのも、サークルに入るのも、授業に出るのも、特に強制されはしない。
ただただ、自主性を求められるところだった。

だからだろうか、
初めこそ「ぼっち」と言われることに怯えていたが、
中学生や高校生の頃のように、人目を気にすることは、次第に少なくなっていった。
周囲の誰も、私のことなんて全く気にしていなくて、そんなことに居心地の良さを感じるようになっていた。

人目を気にせず、教室で授業を受けられること、
学ぶことの楽しさ、考えることの楽しさ、
そんなことを思い出すことができたのが、大学生活だった。

これは後述もするが、
何のために高いお金を出して大学に行ったのだと、
卒業後、知り合いから死ぬほど言われた。

勿体ないことをすると思うその人たちの気持ちも、めちゃめちゃ分かる。
大学に行けるというだけで、恵まれている。
本当に勿体ないし、親にも申し訳ない。

だが、
物思いに耽りながら、のんびりと大学の敷地内を歩いたり、
図書館で様々な本を読み漁っては、一人で過ごしていたあの時間は、
私にとって、宝物みたいな思い出なのだ。

友達をたくさん作ることや、仲間を思いやって皆んなで行動することが素晴らしいと、
今まで学校の先生に散々言われてきた。

それでも、一人で過ごすことも悪いことでは無いのだと、価値観を変えてくれたのも大学生活だった。

しかしそれが良いと全肯定するつもりも無い。

人と関わる中でしか得られない成長もあると思うし、
正直マンガやドラマで見る楽しそうなキャンパスライフには未だに憧れる。

ただ、あの時の私には、その時間が必要だったのかな、
そう私が思っているだけだ。

多分、その時必要な時間や言葉というのは、
人によって違うのだと思う。

なんて事ない言葉に励まされたり、なんて事ない言葉に傷ついたり、
強くなったり、弱くなったり、
そんなことを繰り返しながら、気付かないうちに、人の心は少しずつ変わっていくのかな、と思ったりする。

そんなこんなで、また人生の転機を迎えたのが、就職した時だった。

想像通り、就職活動は難航した。

10年ほど前、当時就職氷河期と言われていたことも多少はあると思うものの、
特に努力をしてきた大学生活ではない。

心のキズを回復させていました、という理由がアピールポイントになるはずもない。

人生にやる気を失っていた大学一年生の自分だったが、
年を追うごとに、人間的に多少は成長したいな、と考え始める位には回復していたので、
就職が難航することには、結構焦ってはいた。

そんな時に出会った、自分を心から必要としてくれる業界。

それが、介護業界だった。

慢性的な人手不足で、イメージも悪い。

そんな中、飛び込んで来た新卒の22歳である。
即、採用決定であった。

介護は未経験。
仕事経験も、短期バイトを繋ぎ合わせたような経験しかなく、社会人としても未成熟。

そんな自分を採用してくれたのだから、感謝の気持ちは未だにありはする。

しかし、当時の会社は、そんな未熟な若者には、
それはそれは厳しい環境だった。

入社した時の、あの諸手の上げようはどこにいったのだろうか。
「大卒のくせに、頭も悪いし使い物にならない」
「コミュニケーションもろくに取れないし、利用者と話したほうが、まともに会話が出来る」
など散々な言われようだった。
もっとひどいことも言われたが、あまり書いても仕方がないので割愛する。

ただ、学生時代と違うところ。
それはお金が貰えるということだった。

8時間我慢さえすれば、お給料が貰える。
ボーナスだって貰える。

8時間我慢する、を一日一日積み重ねていけば、
半年や一年なんて、とっくに過ぎ去っていた。

人手不足の業界なので、よっぽどのことが無ければ、クビになることもない。

多少の図太さも身につけていた私は、そんな思いで、そこで働き続けた。

半年、一年とそこで働いていれば、
今まで分からなかったことも、自然と出来るようになってくる。

そうすると、周囲の評価も段々と変わっていった。

学生時代は、
見た目の良さであったりとか、コミュニケーション力であったりとか、
そんな目に見えるものや、分かりやすい能力で良し悪しを判断されていた気がする。

だが、会社というのは、
仕事さえすれば居場所を与えてくれるのだと、
その時思い知った。

もちろん、営業や売り上げの成績で評価されるような厳しい会社では、また話しは違うだろう。

私は介護施設でしか働いたことが無いので、
他の業種の知識がほとんど無い。

なので、全部が全部そうだとは言い切れないが、
介護に至っては、やるべき仕事は大体決まっていると思う。

大事なのは、本人にやる気があるかないか、それだけのことだったとも思っている。

大学卒業後、地元に戻ってきたのだが、
再会した友人のほとんどに
「せっかく大学まで卒業したのに、介護!?」
と、よく驚かれた。
「私、介護の仕事だけはしたくない。正直ないわー」
とストレートに言われたこともある。

私の母親も、他の親御さん達から、
「せっかく県外にまで出して、もったいない」
とよく言われたらしい。

でも当時から、たくさんの人にそう言われても、
あまり気にしてはいなかったと思う。

多分、介護施設で働いたことで、
初めて自分が、外の世界で必要とされる人間になれた、と実感できたからかもしれない。

自分の祖父母、父と母、兄妹や親戚たち。
そんな血縁で繋がっている人達とは違う、学校のクラスメイトや友人関係。

そんな中で、自分はいつもあやふやな存在で、
なんで私に優しく声をかけてくれるのか、
なんで私なんかと友達でいてくれるのか、
人間関係の中にいると、いつもそういった不安に苛まれていた。

中学生時代に友達に言われて、今でも忘れられない言葉がある。

クラス替えで知り合いが一人もいないクラスになってしまった時。
友達を作ろうと、必死で明るい自分を演じていたら、少しずつ友達が増えていった、そんな経験かある。

そんな時のことだった。

「アンタが面白い女じゃなかったら、絶対友達になってなかったわ〜」

と言われたのである。

変顔をしたりとか、芸人さんの真似をしたりとか、今思うと痛々しいことをたくさんしたが、
あの時は人を笑わせようと必死に頑張っていた。

可愛いくもないし、太ってるし、頭も良くないし。
そんな当時の自分が編み出したのが、女を捨てて笑いに走ることだった。

それで良いと思っていたはずなのに、その言葉を聞いた時に、とても傷ついた記憶がある。

やっぱり、自分なんて、大した魅力なんて無いもんな。

友達というのは、多かれ少なかれ、
そこにお互いメリットがあるから成立するのだと、なんとなく悟った。

もちろん、そういう友情関係しか育めなかった自分にも非はあると思うので、
真の「漢の友情!」とか「女の友情!」とかいうものも、きっとどこかにあるのだと思う。

そういう関係を持てる人たちを、素直に羨ましく思う。

でもそんな風に、だいたいの学生時代の人間関係を拗らせて生きてきた私にとって、
介護業界で働くということは、大きな転機となった。

入社当時こそ厳しかったものの、
仕事を覚えた後は、職場の人達の態度は、見違えるほどに変わっていった。

偏見を恐れずに言うが、
介護施設に就職しに来る人たちの中にも、介護職自体を見下している人が一定数いた。

確かに、大変な努力をして選考を潜り抜ける必要も無いし、基本的に未経験大歓迎の職種である。

世間一般的な、介護は誰でも就ける仕事、というイメージはおおむね正解だと思う。

他職種の人に、「そんな仕事・・」という目を向けられることには慣れていたが、
介護士として働きながら、「こんな仕事ろくなもんじゃない」と言う人がいるのには驚いた。

よっぽどのことがない限りクビにはならないと書いたが、それを分かっていて仕事を舐めている人が多いのは、事実だと思う。

職員が会社に訴えても、人手不足な上層部は、なかなかそんな人たちを辞めさせることは無かった。

そして案外、そんな人は多くいた。

言い方は悪いがそのせいもあってか、
真面目に働いているだけで、とても評価された。

どんな仕事でも、(もちろん法に触れてはいけないが)
一生懸命働いてお金が貰えているなら、上も下も無いと思っている。

働くうちに、そんな気持ちが芽生えるようになっていった。

利用者さんに手を挙げず、暴言を吐かず、決められた仕事をしているだけなのに、
仕事が出来る職員として、年々評価されるようになっていった。

容姿も、コミュニケーション力も、頭の良し悪しも大きくは関係なかった。

真面目に働いているだけで評価され、必要とされる、そんな場所だった。

自分がここに勤めているだけで、会社にとっては充分なメリットなのだ。

そういう意味で、今までの人生で自信の一つもなかった自分に、自信をつけてくれたのは介護職なのかもしれなかった。


でもだからこそ、私はそこから身動きが取れなくなってしまったのだ。

感謝はしている。

私を必要としてくれたことに。

私に自信をくれたことに。

働き出して10年が経った頃、またしても大きな転機が訪れることになる。

少し調子に乗っているところはあった。
正職員として色々な仕事を任され、責任者としての立場を打診されるようなこともあった。

だから、会社にとって自分は必要不可欠な存在だと思ってしまった。

自分がいなくなったら、この会社は廻らなくなるはずだ、と。

ちょうどコロナが流行り大変な時期でもあった。

いよいよ人が入ってこなくて、残業ばかりするようになった。

体調がおかしいのは、そのせいだと思っていた。

通勤途中、自転車が漕げなくなって、自転車を押して職場まで歩くことが増えた。

勤務中、うまく呼吸が出来なくて、隠れて息を整えるようになった。

帰宅後、お風呂に入るのが精一杯で、
それ以降は次の日の出勤時間まで布団から出られなかった。

家を出る時は、体を引きずるようにして、無理矢理自分を奮い立たせていた。

そんな時だった。
勤務中に体が動かなくなったのは。

いつも「大丈夫?」と人に訊ねる側だったのに。

「大丈夫じゃないです」と同僚に答えたのは、
初めてのことだった。

病気になったからとはいえ、すぐに辞めれる職場では無かった。

そこから通院しながらも、2ヶ月は働いた。

病気になる前から、いつか辞めようとは考えていたのに踏み出せなかったのは、自分に慢心があったからだ。

この会社に不可欠な私が辞める訳にはいかない、と。

あとから聞いた話しだが、私が辞めたあとに新しい職員が続々と入り、残業することも無くなったらしい。

新しい管理者が、今までしていた面倒な仕事を減らしてくれて、以前より手間が減ったらしい。

今までしていた面倒な仕事を任されていたのは、ほとんどが私だった。

正職員だから、若いから、そんな理由で背負っていた仕事。

何ということは無かった。

効率化できるような頭も、上に掛け合うような勇気も無かっただけで、ただ余計な仕事をしていただけだった。

働いている時に泣くことは無かった。

ただ仕事を辞めてから、冷静になった自分が、そんな過去を思い出して、ポロポロと涙を流すことがよくあった。

あの会社に入ったことは後悔はしていない。

ただ、体も心も壊すまで働いてしまった自分を、今もまだ、後悔している自分がいる。

退職前は、10年間ろくに長期休暇も取らなかったので、
めちゃめちゃ旅行に行ってやると意気込んでいた。

意気込んではいたものの、いざ旅行に行ってみると、
息苦しかったり、いまいち気分が乗らなかったりと、
予想よりも楽しむことが出来なかった。

もう少し体を休めるか・・、そんな事を考えながらズルズル過ごしていたので、
すぐに失業保険の給付期間は終わりを迎えた。

以前より体調は安定していたので、
そろそろ本腰を入れて就職活動しなきゃなぁ、
さすがにそんな気持ちが芽生えてきていた。

それは、とても暑い夏の日のことだった。

久しぶりに会う親戚と家族で食事をすることになった。

話しが弾むなか、私が家で何をしているか、という話題になった。

働くことで精一杯だった時、私はそれ以外なにも出来なかった。

だから、掃除や洗濯、ご飯作りが出来るようになった自分に、少しずつ幸せを感じたりしていた。

けど、そんなことは普通の人には当たり前の事だった。

「家にこもってばっかりで何してんの?
バイトでも何でもいいから、働きなさいや!」

その一言が、とっても重く心に響いた。

その日から、親もしきりに働くことを急かすようになったと思う。

多少ブランクがあるとはいえ、さすがの介護業界である。
希望通りの職場はあっさりと見つかった。
あとは私が、一歩踏み出せばいいだけだった。

そんな時だった。今まで感じたことことがない恐怖と、パニックに襲われたのは。

パニック障害、という言葉を聞いたことはあったものの、その症状がどんなものかは、見当がついていなかった。

人によって様々だろうし、色んな症状があるものだとは思う。

ただ、こんなに恐ろしくて、苦しい感情に支配された日々は、初めてだった。

苦しくて苦しくて眠れなかった。
部屋中歩き回って、絨毯を掻きむしったりもした。
それでもまだ足りなくて、外に出て歩き回っては、また家に戻ってを繰り返した。

道路沿いを歩いている時、そのまま車が飛び出してきて、跳ね飛ばしてくれないかと想像したりもした。

友達と話しながら歩いている女子高生や、気怠げに歩いているサラリーマン、ハイキング中の年配の女性。

すれ違う人の中に、いつもの日常があることが羨ましくてたまらなかった。

明日が来ることが怖くて、来週が来ることなんて考えられなかった。
怖くて怖くて、それまで耐えられるとは思えなかった。

初めて心から死にたいと思った。


それから精神科の病院にかかって、薬を飲むようになった。

薬を飲んだら、不思議と衝動的な感情は和らいでいった。

カウンセラーの先生は、心の病気は、脳の病気だと言った。

必要なら、薬を飲むことは悪じゃない。
脳をだましながら、少しずつ、健康的な生活を取り戻していくよう、そう助言された。

しこたま薬を飲んだり、怖くなって突然飲むのを辞めたり。
そしたらまた突然恐怖に襲われて、前よりもっと薬を増やしたり。

この一年は、そんなことを繰り返していたように思う。

今は薬を飲む量はだいたい決まっていて、
先生に相談しながら、少し減らしたり、増やしたり、現状維持だったり、色々ではある。

それでもまだ不安定で、いつどんな感情が襲ってくるのか、未だに掴めないところがある。

前みたいに、跳ね飛ばされたいとまで思わなくなったので、それだけはマシかなと思っている。

つい最近までのそんな私は
はたから見れば、とても安定しているように見えたらしい。

そう言われると自分でも平気な気がしてくるもので、
仕事応援室、というものに行ってみたりした。

やはり介護の経験があるので、それにチャレンジしてみるよう言われた。

「それだけ経験があれば大丈夫ですよ!」

その一言に背中を押され、介護の就職フェアに行ってみた。

沢山のブースを見て話しを聞き、働かないのは勿体ないと言われ、色んな働き方を提案された。

その日の夜、頭の中がグルグルして眠れなくなった。

眠剤は飲まずに眠れるようになっていたのに、飲んで寝たのは久しぶりだった。

仕事応援室に行ったのは、その一度きりだった。


少しずつキズが回復していくように、
少しずつ心も壊れていくのだと思う。

それに気付くのが遅くなると、修復していくのにも、大変な時間がかかるのだと思う。

あんなに必要とされたかったのに。
必要とされることが、怖くなってしまっていた。

楽しいこともたくさんあった。

利用者さん達と爆笑しながらババ抜きをすることも、
皆んなに好きな歌を尋ねて、得意げに歌を披露してくれる姿を見るのも好きだった。

車椅子を押して一緒に外を散歩して、道端に咲く花や涼しい風に、共に季節を感じて心が癒されることもあった。

「こんな汚いババァの世話をさせてごめんね」といつも言ってくる利用者さんがいた。

そんなこと全然気にして欲しくなかった。

あなた達をお世話させて頂けたから、こんな自分でも、人の役に立つ喜びを知ることが出来た。

入りたての未熟な私を、若いというだけで可愛いがってくれた利用者さん達がいたから、人と関わることが少しずつ怖くなくなっていった。

貰ったものもたくさんあるのに。

働いていた時を思い出そうとすると、
息が苦しくて、目眩がして、
もがくようにして必死に働いていた自分ばかり思い出してしまう。

これを書き始めたのが、7月の初めのことだ。

仕事中に倒れそうになったのも、
退職後初めてパニック症状が出たのも、
全て暑い夏の日のことだった。

今年もまた夏の暑さが兆し始めて、
ああ、やっぱりこの季節になると、体が思い出すのだな、と思った。

だから、こんなに大粒の涙を流しながら、
こんな文章を書き始めてしまったのかもしれない。


大学時代のように、

あの孤独な4年間が人生の彩りだと思えるように
なった頃のように、

この2年間が必要な時間だったと思える日が来るのだろうか。

時間が経てば必ず傷は癒えると信じていたけれど、
壊れてしまった心を取り戻すことができるのだろうか。

今の私には、まだ全然分からない。

今まで起こったことが全て必然だというのなら、それにはどんな意味があるのだろう。


誰かが命を絶ったという話しを聞いた時、深い喪失感に襲われる。

それは私のせいではないし、知り合いでもないのだけど。

どんな理由があったのかも分からないのに、自然と涙が溢れてしまう。

それは決して正しい選択だとは言えないけど、
それほどの苦しみを抱えた人に

「いかないで」

なんて容易く言えることではないと思った。

その人の苦しみも、絶望も、その人にしか分からないのだから。


ただ、人の気持ちが少しずつ変わっていくように、

その人の絶望も、
もしかしたら本人が気付いていないだけで、
少しずつ形を変えていっていたのもしれない。

もしかしたら、あともう少しで、それに気付けたはずだったのかもしれない。

劇的に変化が無いと、人は中々それに気付けないのだけど。

生きているだけで、ほんの少しでも、希望に近付いていたのかもしれない。

私が10年間、自分の心が壊れていくことに気づかなかったように、

もしかしたらこの先10年経って、自分が変わっていることに気付くかもしれない。

今すぐにでも良くなりたいと思ってしまうけど。

周りと比べて落ち込んでしまう日もあるけど。

急いで急いで生きるのは、もう辞めようと思った。

ゆっくり、ゆっくりとしか進めない。

きっと、少しずつしか変われない。
けど、それで良いや。

自分が気付かないうちに、ゆっくりと命を取り戻していくことができたらいいな。

そんな希望を持って、今日を生きられたらいいな。

辛くなったら、薬を飲むのもやぶさかではないし。


「いかないで」

とは言えないけれど。

あなたの命がいつか輝きを取り戻すことを、

あなたの暗闇に一筋でも光が射すことを、

私は心から願っている。

願うだけなら、それは私の勝手だと思うから。


少しずつ。

少しずつ。

自分でも気付かないようなゆっくりさで良いから、
心が形を変えていけばいいな。

そう信じて、願いを込めて、私は今日も生きている。



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