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食べることは受け入れることだ

ものを食べることは、相手を受け入れることである。
というのはわたしのずっと唱えている持論である。

コミュニケーション能力に自信がないので、
軽いジャブみたいな心理学を学ぶのが昔からすきです。

有名どころでいうと、ミラーリング(相手の行動を真似すること)は、
相手に心を開かせるような効果があるといいます。
吊り橋効果というのは、
吊り橋を渡るようなどきどきする時に、一緒にいる相手にどきどきしていると勘違いするという効果があるようです。

そういうことを踏まえた上で「飲食する」ということを考えたときに、
それは相手を飲み込んでいるんじゃないかと思っています。

想像するに易いのですが、
わたしはたとえば
初めて食事をする相手に緊張しているときに食事が喉を通らなくなります。
そして嫌いな相手といるときは、食べ物の味がしない。

人間の三大欲求である「食欲」「睡眠欲」「性欲」の3つのうち、
近しくない人とでも共にするのが唯一「食欲」であります。
そう思うと、食すことってすごく神秘的なことには思えませんか。

誰かと一緒に食事をするということは、
三大欲求、つまり人が生きて行くために必要な行為のうちの1つという大切で根源的な行為を共有するということ。
あまりにみんな自然に行っていますが、
これはとても尊いことだと思っています。

目の前の食べ物を食べるということは、
もっというとリスクが大きいし(直接的に命に関わる)、
生命の根幹を揺るがす可能性のあることです。
アジア諸国にいったことのある人には容易に想像できると思いますが、
野菜で普通におなかをこわすわけです。

それをお店などでは他人にまかせることができるというのは、
どこかに預けられる信頼があるからこそと思います。

わたしが出した飲み物を飲み込んでくれる、
それは大きな信頼があってのことだと日々重みを受け取っています。
自分自身の存在を、相手に肯定してもらっている。
極論ではなく、毎日そう思っている。

わたしは、
相手に受け入れられる状態を作ることも仕事のひとつだと思うし、
そうできない場合には、
自分の味を味わってもらうことすらできない。
自分の飲み物をお金を払っても飲みたいと、味わいたいと思ってもらえることの奇跡。
そしてそれを「おいしいと思いたい」と思ってもらえるその信頼関係。

ここがわたしの理想とし、目指すところであります。
そしてその信頼関係を作ったからには、
わたしの出すものはできるだけ広くの人にとって「おいしい」ものでないとならない。
その人が好きな人にすすめた店が、誰かにとっておいしくなかったら、
その人とわたしの信頼関係も崩れるから。
わたしが1杯1杯おいしいコーヒーを出したいと思うのは、
自分を愛し支えてくれる常連さんがいるから、
いまはひとえにそれだけです。

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