自分を肯定して逃げるという高見盛のストレスコーピング術
先週、1面に載っていた連続起業家 家入一真さんのインタビュー記事。
これで思い出したのが、何年も前の記事だけれどサムネイルの力か度々ランキング上位にあがってくる高見盛のインタビュー記事。
高見盛が東関部屋を閉めた当時
高見盛が、稽古場では力を発揮できなかったことも、ファンとのふれあいができないことも、決して怠慢ではない。本人は懸命で、求められる振る舞いができていないことについて自覚的である。
上の記事では東関部屋を廃するに際しての痛切な胸の内を吐露しているけれど、それは運営を失敗したという悔恨ではなくて、もとより自身が部屋を継げる器でないことを自認したうえでの悲嘆だったようだ。
高見盛の思い出
土俵では右が入るかが生命線で、右を挿せないともろかった。しかし目をつぶって土俵際でも懸命にもがき、結果、体を入れ替えて逆転することもあった。
土俵外では、何と言ってもロボコップと呼ばれる所以となった取り組み前の気合い入れのルーティーン。そして永谷園のCMにも使われた、星による花道を下がる姿の落差。
お相撲さんにしてはどっしり構えたところがなく、常に浮足立った様子。だからこそ、朝青龍から金星をあげた一番での歓喜の姿には、皆が快哉を叫んだ。品格を厳しく問われる番付けでなかったこともあるだろうが、意図したパフォーマンスでないからこそ、受け入れられたハイライトだった。
バラエティ番組でさとう珠緒に直情径行に求愛して、それをとんねるず石橋に咎められる鉄板の流れも、不調法とぶりっ子の双方にひたむきさ、素直さがあったからこその面目躍如と言えようか。(さとう珠緒も当時の所属事務所との裁判沙汰など苦難を経つつも矜持を持って「ぶりっ子」を続ける、不撓不屈の人である。)
高見盛の今
話を戻すと、元高見盛こと東関親方は今も部屋付きの親方として、かつての人気力士、相撲人として、頑張っている。サインのようなファンサービスができなくても、彼にしかできないファンサービスがある。そのことに親方は自覚的であるに違いない。生来謙虚でよくわきまえた人がときに派手なパフォーマンスを行うのは、自己顕示欲ではなく、喜んでもらえることで自己肯定感を得られるためなのだろう。
自分を肯定して逃げるというストレスコーピング術
些細なことで矯められることのない、自然体で規格外の人には、節度のない逸脱と厳しい目が向けられやすい。家入さんも高見盛もそうした挫折があった。
でも大丈夫、私には魅力や価値がある、と自分自身で言い聞かせる術を、高見盛は教えてくれている。
フワちゃんも、今は辛い局面から逃げて良いと思う。
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