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付け加えず、その場のものを見出す

「やらなきゃいけないとは思っているけど、つい後回しにしちゃって…」

「この前も地震あったけど、まあ何とかなるかな」

防災の会社をやっていると、こうした人によく出会う。
建築物は強固になり、昔に比べて、人は災害の危険性を持ちづらくなってしまった。

だからこそ、防災への備えは大切だと真正面から訴える方向とは別のアプローチで事業に取り組んでいる。
誰にとっても必要な防災グッズを、相手のことが大切だからおくるというギフトの文脈に落とし込んだカタログギフト事業。何からやっていいかわからない方に向けて、質問に答えるだけで、個人に最適な防災対策を提案するECサイト事業を展開している。


ただ最近、カタチにすることで、逆に薄れてしまうことがあると感じている。
都市のインフラが整備されることで、災害の脅威や意識が遠ざかるように、防災グッズやセットを買うことで、解決したと思って、逆に意識が遠のいてしまう。

もちろん、物を備えることは大事だし、それを普及させることはこれからも変わらない。
でも、そもそも備えられない人や、備えて終わったと思っている人に対してはどうすればいいのだろう?

そんなことを考える中で、最近、読んだ田中美咲さん(元一般社団法人防災ガールの代表)の書かれた本の中に、こんなフレーズがあった。

例えば、緊急時であればあるほど、普段使っていない多機能アイテムは使いづらい。たとえデザイン性が優れていたとしても使用頻度の低いものは身近には置かれづらくなってしまうのだ。自宅で被災しているならまだしも、外出中や旅行先で被災した時には、既存の防災グッズや仕組みが活用できないこともしばしば起こる。
そうであるならば、既存のものに頼るよりも、自分自身がどんな状態であっても生き抜いていく知恵やスキルを身につけたほうが緊急時に役立つのではないか。そう考えた時に、目の前にあるものを活用して創意工夫しながら必要なものを生み出していくことが大切ではないか。わたしたちの先祖が当たり前のようにやっていたことこそが実はもっとも必要なスキルなのかもしれないと思うようになった。

非常識なやさしさをまとう 田中美咲

もしかしたら、防災グッズは不安を解消するためのもので、本質的に助かるものにはなっていないのかもしれない。
目の前にある恐怖をただ遠ざける存在であってはいけない。
そうならないためには、逆にカタチのある防災グッズという物そのものではなく、すでに生活の中にあるものが災害時にどう使えるのかを見出すことのほうが大切なことのように思う。

たとえば体温維持の観点で、アルミブランケットを災害のために持ち歩くのは難しくても、夏場のクーラーが寒い場所の対策として、ポケッタブルパーカーを持つのは無理のない行為かもしれない。

生活の中に、無理に物を付け加えず、すでにあるものの捉え方を見出し、使い方を見立てていく。
その行為の中で、その人が持つ、本来の生きる力を取り戻す。そうした要素がもっと防災にあってもいいのかもしれない。

そんな人間の本来持っている力を取り戻す思想に惹かれて最近買ったたのが、VIVOBAREFOOTシューズ。
足には26個の骨、33個の関節、100以上の筋肉、腱、靭帯があり、手と同じように多くの感覚を得ることができる。
でも、現代ではその感覚を感じることはない。分厚いクッション性の優れた歩きやすい靴で不自由なく歩くことができる。ただその一方で、足の本来持つ筋力や柔軟性は退化しているのかもしれない。
このシューズは極力、裸足に近い感覚が得られるように、足裏は平坦に作られており、クッション性もほぼ皆無。
ただ、幅広で、薄く、曲がりやすため、大地の感覚を裸足のように感じられる。

プライマスライト III メンズ

こうした人の本来持つ力を取り戻したり、不自由な生活をあえて楽しむような姿勢が現代の生活において大事な気がする。
便利な生活になりすぎて、それが途切れたときに支障が出てしまうなら、普段の生活から、あえて不自由さに楽しみを見出すライフスタイルは面白いのかもしれない。

あえてお茶を入れる時間をかけるためて不自由さを楽しむための鉄急須

これさえすればいい。これがおすすめ。これをやるのが正解。
情報過多な現代において、そうしたわかりやすさが求められてしまう。
それは防災においても変わらない。

これさえ買えば大丈夫。そうして無理に防災グッズを生活の中に付け加えずとも、目の前にあるものに新たな価値を見出すこと、その思考には非常に価値があるように感じる。

日常の生活と災害時は延長線上にある。
災害時だから特別にするのではなく、すでにある日常を続けるために、目の前にあるものの見方を変えてみる。
そうしたことが大切なのかもしれない。

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