見出し画像

閉塞感の正体はどこにあるんだろう

どこにもいけない閉塞感が常にあった。

バブルの崩壊とともに生まれ、ずっと不況で育ってきた世代。
明るい時期を知らず、穏やかだが少しずつ衰退していく日本と一緒に生きてきた。

少子高齢化で経済は衰退し、終身雇用もなくなって、自分のやっている仕事がいつまで続くかわからない。
社会保障費と税金は上がり、定年後に年金で老後を楽しむなんて遠い夢の話。

「変化に取り残されるな…!」
「AIに仕事がとられる」
「人生100年時代でリスキリングが大切」

向かう先や足場が定まっていないのに、周りの空気だけが先行する。

「日本は大変だから、もっと頑張らないと痛い目をみるぞ。」

そうした無意識の強迫観念のようなものが纏わりついて、どこに向かっていいかわからなくなっていく。

今まで何を大事にしてきて、これから何をやり、どう生きたいのか。
目指すべき軸や中心点のようなものが失われたまま、空気に支配されて生きているから、こんなにも息苦しいのかもしれない。

目指すべき軸や中心点はどうしたら見つかるのだろうか。


僕たちには何色の血が流れているんだろう


「日本人ってどうして無宗教なの?」

キリスト教徒でもないのにクリスマスを祝い、その数日後には神社に初詣にいく。夏になるとお盆休みに墓参りに帰省する。

僕たちのアイデンティティやルーツは、どこにあるんだろう。

高度経済成長を支えたバリバリ働く勤勉な日本人?
国家神道、着物、武士道、刀、侘び寂び、禅の心?
古事記や八百万の神々の精神?

いろいろなことが思い浮かぶけれど、そのどれもが現代まで意識として明確に根付いていない。

たとえば、アメリカは植民地支配からの独立戦争の過程もあり、自由と憲法の国になった。様々な民族が入り混じり、一つの国家を形成しているからこそ、明確なルールや曖昧性を排除する。未開の地を開拓してきたからこそ、自己の力であらゆるものを切り開けると考える。
だから、自由と憲法がアメリカのアイデンティティになり、その思想が現代にも色濃く続いている。

日本は明治以降の近代化の流れにのって富国強兵を進め、積極的に西欧文化を取り入れた。だからこそ、急速に近代化が進み列強の仲間入りをすることができたけど、そのときから大事なルーツも失ったのかもしれない。戦前戦後で形成された精神性もアメリカの介入のもと失われ、高度経済成長の終身雇用や家族経営的なマインドもバブル崩壊とともに消えてしまった。
だから、今を生きる僕たちは、みんな自分が何者かわからなくなってしまったのかもしれない。

残ったのは経済の衰退していく日本の未来と、大きな声をもつ国の意見に従うしかない生き方だけで、このままゆらゆら彷徨っているだけなのかもしれない。                     

つくり出すのではなく、結びつける

日本の歴史の一部分を切り出して、これがアイデンティティだというのは難しい。でも特徴をあげるなら、日本は常に外部から様々なものを取り入れ、混ざり、従来のものと結びつけてきた。そうした無節操な雑種性のようなものが日本のアイデンティティなのかもしれない。

日本で文字がなかった頃、中国から漢字を取り入れて自国の文字を形成していった。当時の日本の言語に中国の文字を結びつけてきた。仏教も日本は中国経由で取り入れながら発展してきている。もともとの土着の神と外来の仏を結びつけ、区別せず、取り変わることなく、共存する形で1,000年近く神仏習合を行ってきた。

能の詞章では、「神といひ 仏といひ ただこれ水波の隔てにて」という定型句がよく出てきます。水と波のように、現れ方は異なるが、本体は同一である。キリスト教で結婚式を上げる際に祈るときの「神さま」と、神社で柏手を打つときの「神さま」と、お寺のご本尊に坐します「仏さま」の間に本質的な違いはなく、本源的には同一の超越性が、そのつどその場にふさわしいかたちに「権現」して登場する

日本習合論

そこから明治とともに廃仏毀釈が行われ、神と仏は分離しお寺や仏は取り壊されてきた。天皇のもと国家神道を推進してきたにもかかわらず、現代にも仏教やお寺や仏像、盆などの文化もまだ残っている。

明治以降は、近代化のために西欧文化を取り入れ、これまでの和服や和室、和食から洋服、洋室、洋食の文化を採用してきた。

シンガポールの西洋式文物は西洋人のために万事マルセーユと同じ寸法でできているが、神戸では日本人の寸法にあわせてある。西洋文明がそういう仕方でアジアに根をおろしているところは、おそらく日本以外にはないだろうと思われる。

雑種文化 日本の小さな希望

日本は西欧の文化を自分たちの生活様式の中に結びつけている。これは伝統的な日本から、近代的で西欧的な日本に切り替わったのではなく、深い部分で様々な文化を結びつけて独自のものとして取り込んでいることに特徴がある。

日本は1,000年以上前から、様々な歴史を取り込んで、結びつけ独自の文化を形成してきた。新しいものに取って代わるのではなく、様々なものが共存する形で生活様式の中に結び付けられている。

この時代を変えて様々な文化を取り入れ、結びつけ、二項対立ではなく、二項同体として共存していることが日本としてのアイデンティティなのかもしれない。

右に倣っても行き止まり

小柄で高齢なのに必死に努力の一本槍で戦いを挑み続ける。
資本主義のもと、合理的かつ効率的なスピード勝負。曖昧さを排除し、白黒はっきりつけて答えを出す。感性や直感ではなく論理とデータで、家族のような人間関係より成果主義でドライな関係性を貫き、強いビジョンやスローガンを掲げて戦いに出る。

今までの過去をなかったことにして、右に倣えでこのゲームに参加したけど、ずっと苦手なことを続けているのかもしれない。国も僕たちも。
だから、30年近く立っても給料はあがらないし閉塞感が続いている。

みんなが同じ答えを目指さなくても、みんなが同じゲームをする必要もない。

顔も知らない誰かの声に右に倣えを続けてきたけど、ずっと苦手なゲームを続けて閉塞感を感じるぐらいなら、もっとやりたいことをやってもいいのかもしれない。

今やっている仕事や生活をやめて取り替えてしまうのではなく、自分の好きでやりたいと思うことを今の生活様式に取り入れてみる。

創造とは洞察であり、選択である。(・・・)数学的事実は、久しく知られてはきたけれども、相互にまったく無関係だとみなされてきた事実の間に思いもかけない血縁関係があることを教えてくれる。そして、見出された結びつきのうちで最も豊穣なものは、しばしば遠くかけ離れた領域から引き出されてきた要素によって構成されているのである。

日本習合論

葛藤というものは、そこに現象している二つ以上の出来事や人物や思想をそのまま固定しているから、あいいれないのものと映るわけです。それらが何かのぐあいでつながっていたら、どうか。あるいは、ちょっとした工夫でつながったら、どうか。矛盾や葛藤があったぶん、それらのつながりには意外なものが出来するばあいがありえます。

日本という方法 おもかげの国・うつろいの国

代替でも、更新でもなく共存して混ざりあい、遠く離れて全く無関係だと思っていたものに折り合いをつけてみる。そうしてみると意外と思いがけない出会いがあるかもしれないし、独自のものが生まれるかもしれない。この国はそうしてきたし、そうであるほうが自然で合っているような気がする。

空気のように重く纏わりつく、「こうした方が良い」、「こうすべき」という大きな声よりも、自分の面白いと思ったもの、好きだと思ったもの、それを取り入れて今と共存させてみるのが、意外と日本的で性に合う生き方なのかもしれない。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?