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そこにないものを想像する力が問いの持つ力なのかもしれない。

アートが社会に問題を投げかけるように、
アイディアがイノベーションになるように、
思想が時代を変えるように、

「問い」とは
99のそこにない可能性に気づくこと。
そして、すでにそこに確定された1の常識や今に縛られないことなのかもしれません。

① 問いとは何か

僕たちの生きている日常は、多くの常識や法律、道徳、慣習、現実など、こうしないといけない、“すべきこと”で溢れています。これは、すでにそこにある確定された事実であり、常識です。
でも、これに縛られすぎて、生きづらさを感じている人が多いのかもしれません。
世の中のすべきことに合わせすぎて、人の本来持つ可能性が失われてしまう。無いものとして思ってしまう。

「正解を探す必要はない。
 自分が感じたことを大切にすること。」

そうした社会の制限を外したときに人の意見やアイディアは多様で広がりを生んでいく。

この可能性に気づいたり、引き出すために、「問い」を持つことが大切になると感じています。
子どもを見ていると、落ち葉やどんぐりを拾って楽しそうにしている。同じ動作をしたり、何でもかんでも指さして、触って、口に入れたりしている。
子どもはそうしたすでに確定された常識やルールを知らず、未知への好奇心で、世の中に問いを持って、世界を拡張している。

だから問いは、そこにない未知の99の可能性に気づく力なのかもしれません。

世の中に今存在している「すでに確定していること」と、そこには「まだ存在していないもの」を比較したときに、無いもののほうがはるかに多い。
当たり前の常識が、当たり前ではないことに気づき、そこに無いもの、存在しないことへの疑問や義憤を持つことが問いを持つということかもしれません。

② 生活の中での問い

自分の人生にとってのテーマや意思、原体験のようなものから問いが生まれるのかもしれません。
僕は防災を仕事にしており、「人々に防災を広めていくためにはどのようなアプローチが考えられるか?」というテーマや、自分の人生の原体験として「なぜ人はお金に縛られてしまうのか」、「どうすれば多くの人が、すべきことから逃れて自由な生き方を選択できるのか」といった自分の湧き上がる意思や衝動のようなものから、問いが深まっている感覚があります。

そのような問いを深めていくと、様々な分野につながっているように感じます。例えば、防災を広めるためには?の問いを深めていくと、ただ防災グッズを斡旋するだけでは役に立たず、かといって恐怖や必要性だけで対策を促していると限界がある。広めていくためにはもっと無意識の行動習慣や文化、人の暮らしについても知る必要がある….

というような流れで、ビジネス領域から、行動経済学やデザイン、宗教、哲学、人類学、歴史、芸術など、幅広く人そのものを理解する必要があると感じています。そうしていると、今までビジネス領域で捉えていた物事の無限の広がりや可能性を感じます。あらゆる物事は実は見方によっては、横断的につながっており、アナロジー的に他領域から結び付けられるような気がしています。

③ 問いの面白さ

この問いを持つということは、自分の人生を自由に生きることなのかもしれません。
ずっと社会に合わせて“すべきこと”を続けていると、それが当たり前だと思ってしまう。その現実から離れて、自分の人生を取り戻す力が問いにはあるように感じます。

問いの始まりは、最初Howのような、仕事の中でどうしたら良いかという具体論について考えはじめ、そこからWhyのような、なぜしたいか、何をしたいかというところに目が向くようになりました。そこで初めて、社会から求められる“すべきこと”から、自分にとっての“やりたいこと”が見えるようになってきました。問いを持ち、知識を学び、やりたいことを考え、創意工夫を行うことで自分にとっての世界の認識を拡張していく。
そういったところが問いを持つことの面白さだと思います。

④ 帰納、演繹、アブダクション

推論や論理的な思考として、帰納法や演繹法が代表例としてあげられますが、大切な要素としてアブダクションという思考方法があります。
アブダクションとは仮説的推論とも言われ、目の前にある驚きの事実に気づくことから始まります。

リンゴが木から落ちる事実を見て、重力の存在をニュートンがひらめいた(諸説あり)ように、いかに当たり前の事実に驚きの目線を持てるかが大切なのかもしれません。

そのための物事の見方として、
・数奇を極めること
(通常よりも認識を深めた目線を持つことで、別の物事を見たときに違った見方や、数奇と似たものや似た構造に気づき、それらを結びつけることでひらめきにつながる。)

・歴史を知ること
(歴史を知ることは、今の社会の当たり前を相対化し、そうじゃない世界の存在を気づかせる力がある。)

・アフォードとイメージ
(ある存在や物体がどのような影響力を持っているかに気づくこと、それらがどこから来ているかといった当たり前の出来事に目を向け直すこと。個人的には感性や感覚を研ぎ澄ます、今に集中するというイメージがあります。)

こうした一見、当たり前に過ぎ去っている出来事、気付けない事象に対して、驚きの事実の存在に気づき、そこから飛躍させる。
リンゴが落ちるには重力の存在があると飛躍させることや、星の軌道のズレに対して、天が動いているのではなく地球が動いていると飛躍させること。

こうした衝撃の事実から逆算して飛躍した仮説を構築していく。でも大切なことは論理性や事実の確からしさ、誰かから要請された“すべきこと”などではなく、「こうかもしれない」「このほうが面白い」という事実や理論は一旦抜きにした、個人的な感情から発するほうが良い飛躍が生まれる。好きや面白いと思えるから追求したり、違った目線が持てるようになる。そんな気がしています。

その後、社会で求められる予測やデータは後で裏付けていく。演繹的な思考で前提条件を整理し、帰納的な思考で経験論やデータをみていきながら、その飛躍の確からしさの精度をあげる。

今の社会は、データや予測や、目に見える要素を重視しすぎていて、本来の人が持つ可能性に制限をかけているのかもしれません。データや根拠が全てのように思える科学ですら、アブダクションから始まっており、世の中のイノベーションもアブダクションから始まっている。そのことを考えると改めて、今回の飛躍の重要性を再認識しています。

もちろん、アブダクションだけではなく、演繹、帰納を組み合わせ、バランスをとることが、実社会での問いのあり方なのかもしれません。

⑤ 問うために必要なこと

アウトプットの場や結びつけたい文脈、気になるという意思が存在しているからこそ、問うという姿勢が生まれるのかもしれません。
何かを深めたい、知りたいという意思、自分の原体験、仕事、悩み、葛藤、不満、描きたい未来、そうした文脈や何かをアウトプットするという前提があって、人は問いを持つのかもしれません。

そうした何かを結びつけたいと思う文脈や場、意思が存在し、それを深めるために、あらゆる本や体験や出来事に対して「こういうことかもしれない」と問いかけながら向き合ってみる。
そうすると、別の場面で驚きの事実に気づき、飛躍させることができる。
そんな感じかもしれません。

より具体的なアクションに起こすと、半強制的に気づきと考える時間を与えてくれる日記や、印象に残った場面を写真にとること。現実的な出来事から離れて自己を整理できる時間として、温かいお茶をゆっくりと急須で飲んだり、植木に水をやってみたりすること。

大切なことは、そういった当たり前の日常に目を向け、その事実に対して驚きの目を持つことなのかもしれません。

⑥わかること、わかりやすいことは果たして良いことなのか

人の問いの歴史を遡っていくと、自然や世界への問い、人間そのものや人間の生き方、人間社会への問いが生まれています。その中で現代は自然科学の発展により、わかることが増えてきた反面、わからないことの価値が低下しているように感じます。それはある種の神秘的なことや呪術的なこと、宗教的なこと、曖昧なこと。こうしたわからなかったものがわかるようになって、人は想像力を失っている面もあるのかもしれません。

別の角度でいくと、昔よりも情報が膨大になった影響で、あらゆる媒体で簡単なわかりやすいことが求められているようにも感じます。
活字での情報が動画になり、情報が膨大になった影響で、わかりやすい目に付く表現や内容が求められるようになってしまった。わかりやすいことや簡単なことは、すでに自分の知っている世界から別の世界に連れて行ってくれないのかもしれません。

また別の角度でいくと、わかることによって、その先の可能性が消えている面もあるかもしれません。現代は効率的にスピーディーさが求められてしまうため、早くわかること、早く実行できることが優先されています。ネガティブケイパビリティにも通ずるところですが、答えがわからないという状態が広がりを生んでいく。わからないという消失感や余白があるから、人は何かを埋めたくなるのかもしれません。

わかることやわかりやすいことだけではなく、複雑で曖昧で見えにくいものにも、むしろ価値があるのかもしれませんね。

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