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実益よりも価値観を大事にしたい

偶然の役割を犠牲にして、公平の役割を増大させる。
この努力を人は進歩と呼ぶ。

ロジェ・カイヨワ「遊びと人間」

科学の進歩がビジネスに反映され、偶然の出来事よりも再現性が重視される社会になった。

ある商品やサービスが売れるようになると、後追いの企業が類似品を作り出し、一つの市場が生まれる。録画して擦り切れたVHSのように、何度も焼き増して拡大する。人々のニーズが顕在化したものを、早く、大きく、効率的に拡大させるのが、ビジネスで最も再現性高く利益を作り出せるからだ。

そこに人間性は排除されていく。熟練の職人の技術で成り立つ手工業から、誰にでもできる大規模な工業に。ホワイトカラーの仕事は、分業によって人を歯車にし、AIによって人間の知性は代替されていく。
そこには、自分という人間の必要性も貢献性も消えた、何の手触りのない空虚な仕事だけが残っていく。

生活の糧を得る責任を負うまでは、あんなにも自由だったのに。
幼い頃、誰に言われたわけでもないのに無心で絵を書き続けたり、日が暮れるまで友達と遊ぶ。何の報酬もない部活動で朝から晩まで練習する。
それで何かプロになれるわけでもないのに、自由に没頭することができた。

でも今は、仕事から離れられる束の間の休日でさえ、企業が用意したレジャーやコンテンツを消費する。余暇までもが搾取されている。
熟練の職人が持っていたような自分だからできるという特別な価値と、やりたいことに心から向き合い没頭する時間。
その両方が失われつつあるからこそ、仕事やビジネス、商品、サービスそういったものに新しい価値を加えたい。
そのために、遊びの力が大切のように思う。

遊びとは
(一)自由な活動。強制されると魅力的ではなくなってしまう。
(二)隔離された活動。決められた時間と場所で行われる限定的な活動。
(三)未確定の活動。あらかじめ結果が決まっているものではない。
(四)非生産的な活動。お金や利益をあらたに生み出さない。
(五)規則を持った活動。遊びとしてのルールの上に成り立つ。
(六)虚構の活動。日常生活とは切り離された二次的な活動。

ロジェ・カイヨワ「遊びと人間」

仕事やスポーツでも言われるフロー体験という要素には、自律的であることや目標の難易度が適当であることが必要と言われている。人間が仕事に没頭する要素と遊びの要素は極めて近いのかもしれない。

また、ビジネスで提供している価値は実益としての価値が多く、今困っていることを解決することに注力している。困りごとがなくなり、モノが売れないと言われている現代において、体験が重視されている。これは人が日常とは切り離された虚構に価値を感じるからなのかもしれない。
キャンプや旅行、映画やアニメ、小説、あらゆるものが日常から切り離された虚構として存在しており、そこに価値を感じている。

それは、役に立つこととは真逆であり、実益とはかけ離れている。
そこにこそ、売れるものだけを売って拡大してきたビジネスに必要な視点のように思う。

防災という事業をやっている立場からすれば、防災という実益的な側面。つまり防災グッズを用意することで災害に対策できるという価値は、極めて限定的すぎて、多くの人には届けられないかもしれない。

いくら必要性を訴えても、災害が起こらない、災害が起こっても何とかなる、目の前の生活を優先するという動機の前には成すすべもない。

であるならば、実益ではなく、人が価値を感じる虚構性、日常から切り離された非日常的な体験の側面から訴求できるかもしれない。

今はLIFEGIFTというギフトシーンで商品を展開しているけれど、もっと防災という価値を別の価値とつないでいく。

防災の日や大きな災害が起こった日に、ネガティブではなくポジティブに、大切な人との関係性を再認識する機会になればいい。

生き死にや、究極の極限状態や、大切な人の価値を否が応でも痛感させられる災害という文脈だからこそ、逆に普段は言えない大切な人に対して大切だよと伝える大義として成り立ったり、この人がいてくれて本当によかったと思える機会になる可能性があると思う。

それを年に一回、防災の日や大災害があった日に、大切な人との関係性を見つめ直すきっかけになれば、実益ではない防災の広がり方になるのかもしれない。

そうした実益から離れた経済活動が増えていけば、もっと人間の持つ本来性や働く手触り感が得られるのかもしれない。




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