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手袋をさがしてみた話

月曜日と金曜日、百貨店の中の美容室で働いている。
月曜日の帰り道、自転車に乗ろうとすると、手袋がない!
さほど寒い日ではなかったので、自転車で帰るには問題ない。
しかし、その数日前に「この手袋、20年くらいは使ってるよな。でも、これ以上気に入るものはなさそうだから、仕方ないな。これからもよろしくね」と思ったばかりの、愛着たっぷりな手袋だった。
すぐに百貨店の店員通路の階段(美容室は7階にある)含め、帰りに通った道を逆にたどり、朝立ち寄ったコンビニでも聞いてみたが、どこにもない。

あぁ、ショック…このまま見つからないなら買い直すしかないけど、今まで代わりは見つからなかったし、このままでは向田邦子になってしまう…。

ご存知ない方には「向田邦子?何の話?」だろう。
向田邦子が書いた『手袋をさがす』というエッセイがある。
かいつまんで言うなら、手袋を買いに行ったが気に入るものがなく、妥協して選ぶくらいなら手袋をしないまま冬を越すことにした、という話だ。
そのエピソードは1951年のことらしく、今より暖房が行き届かず寒い冬だったはずで、もちろん家族は心配したという。
しかし、本題はその後で、ある日、一緒に食事をしていた上司に
「君のやっていることは、手袋だけの問題じゃなさそうだね」
「そんなことでは女の幸せを取り逃がすよ」
などと言われてしまうのだ。
その言葉についてよくよく考えた結果、彼女の出した結論は「そのままで生きる」。
高望みでやせ我慢をしようとも、月並みな幸せで妥協しない、というようなこと。
その後も手袋をさがし続ける人生だけど、それは自分の財産である、と20年程経った頃に綴ったエッセイ。
(ものすごーく、かいつまんでいるので、気になる方はご一読を)

『手袋をさがす』収録のエッセイ集「夜中の薔薇」

ものに関しては同じくらい拘りがあると自負しているので、下手するとこのまま、愛用の手袋は見つからず、代わりに購入したいと思えるものを見つけられぬまま、冬が過ぎていくかも、とほんのり不安になった。
特に手袋なんて、どうしても目に入ってしまうものだから、納得してない手袋を嵌めた自分の手を見るのは嫌だな、と思ってしまう。
そんなことを考えながら、夜道に目を落とせば、案外たくさんの人の、たくさんの落とし物が見える。

ラインストーンでデコられた、大きなキーホルダーの付いた鍵。
コンビニで「今、お預かりしている手袋はこれだけです」と見せてくれた手袋の、反対側とおぼしきもの。

この落とし主達はどうしてるのだろう、困っているのではないかな?などと、普段は目につかない道端の落とし物と落とし主に思いを馳せる。

果たして、自分も含め、手袋を落とした人達は、また、理想の手袋に出会えるのだろうか?


その後、私の手袋は金曜日、勤務先の美容室で「タイムカードのとこに落ちてたよ。小さい手だから、あなたのだと思った!」と言って渡された。
何ならその前に、金曜日に勤務先の自分のロッカーから出てくるかも、と思いながらも、ZOZOTOWNのセールで、BEAUTY&YOUTHのオリーブ色の手袋をポチった。

そんな訳で、今、私の手元には二組の手袋がある。
年季の入った茶色いスエードのと、スマホも操作できる緑のスエードと羊皮のコンビの。

写真の通り、何故そこまでそれが良いのか、きっと他の人にはわからない、特別高価なわけでもない、普通の手袋だ。
でも私は、とても気に入っているので満足だ。

向田邦子のように、妥協しない人生を格好良く生きるのは難しく、どうしても俗っぽくなってしまうけど、願わくばこの先も茶色い手袋にも頑張って欲しいし、緑のも茶色いのと同じくらいのお気に入りになれば良いな、と思う。


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