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哲学との対話:「死」に対する考え方

はじめに


これまでに「死」について、ただの一度も考えたことがないという人はいないはずだ。

「死」を対象にすると、途端に逃げ越しになる人も多いと思う。

ぼくはそうは思わない。
むしろ、「死」を積極的に考えることで、「生」をよりよく考えることができることを知っているからだ。
そこで、「死」に対する考え方を整理してみようと思う。

今のところ、ぼくは「死」に対する考え方は、荘子と同じとらえ方をしている。
今のところと付け加えるのは、年齢や経験、体調によって考え方が変わるかもしれないからだ。
おそらく、変わらないと思ってはいるが、念のために付記しておく。

荘子の死に対する見方 


荘子は、
「そもそも自然は、われわれを大地の上にのせるために肉体を与え、われわれを労働させるために生を与え、われわれを安楽にさせるために老年をもたらし、われわれを休息させるために死をもたらすのである。生と死は、ひとつづきのものであるから、自分の生を善しと認めることは、自分の死をも善しとしたことになるのである。」
こういう見方をしている。

「死」を怖いと思う人は多い。取り憑かれると、心の病気を引き起こすこともある。

しかし、もし、死がなかったら人間はどうするだろうか。
おそらく、何もしないだろう。
何かを目指すことも、価値を見出すこともしない。恋愛というものも必要ない。そもそも男女もいらないに違いない。

死の効用

 
ぼくは、「死」を意識することで、大切なことをなるべく先送りしなくなった。
事を起こすのに躊躇しなくなり、恥ずかしさも消えた。いろんなことに挑戦する意欲が増した。
目標が明確になった。自分がやるべきことが何なのかがはっきりした。
健康管理の意識が高くなり、生きる価値を見出すことができた。

このように、「死」を考えた末に「生きる」ことへの意識がはっきりしたのだ。

「死」への恐怖に取り憑かれる人を観察すると、「死は悪だ」と思い込んでいるようだ。

そんな人の「死」は、生きることの延長にある死が、生きることが悪へ向かっていることになる。それでは、生きること自体が悪になってしまう。健全な考えではなくなっている。
「死」について考えることは大切だが、「死にたい」とか「死ぬのが怖い」と考えるのとは違う。
そういったことは、「死」についてしっかりと考え、健全な答えを見出してから考えるべきだ。

ぼくは、今日も「死」という休息をもらえるまで、生きることも死ぬことも「善」と思えるように「挑戦」し闘う。
こう思えるのは、「死」に対する考え方のおかげなのである。

本来なら、「死」というテーマは、こんなに短い文章でまとめられないが、概略としては読んでほしい。