見出し画像

敗者のいない闘いに勝利するとはどういうことか

「勝ちたい」という気持ちに支配されて疲れたことはないだろうか。

人よりも抜きん出たいという気持ちは少なからず誰にでもあると思う。他人よりも優れているという立ち位置を目指すということだ。

成果の見えない闘いは、どこかで終止符を打つべきではないだろうか。

かつて岡本太郎は、著書の中で、

「挑戦する。勝利者でありたいと激しく熱望する。しかしその勝利のために、ひとりの敗者も生まれない勝利だ。」


といったが、この意味の深さを知ることは意外と難しい。答えをそれなりに見つけるのに、長い時間がいるものだ。ほとんどの人のテーマにも上らないだろう。当たり前だ。人に勝つことが、自分の優秀さを示すことだからだ。敗者がいない勝利なんて誰も考えないものだ。

通常、勝つというのは他人に勝ちたいという欲求だ。他人に勝ちたいという欲求に取り憑かれると、自分を苦しめることもある。そして、他人も相手に勝ちたいと思っている。時間は永遠の勝利をもたらさない。


勝ちたいという欲求の強さは、若い世代の内分泌系の働きによる、自分の能力の繁殖相手への顕示は本能的に行われるが、それを過ぎた時からの闘いは別のものにならなければいけないはずだ。


ぼくは、ずっと勝つことは人に負けないことだと思っていた。敗者の上に乗っかった勝者だ。

「敗者のいない勝利」とは何かにこだわった。答えは簡単に見つかるものではないことは明らかだった。

闘わないことは敗者も生まれないが、それは勝利とはいえない。
やがて「勝つことは優れている」という思い込みに行きあたった。

功利的で、本能的な優劣を価値観の基準に置いていたのである。敗者の上にのった勝利のことだ。これでは永遠の勝利はない。


だからといって、この優劣への思いを完全に排除することが出来ないのも事実だ。

勝利とは、優劣に勝つことではなく、自分の功利的な本能に打ち勝つことが勝利だ。そのように思えた。

日常での闘いは、「通常の同年代よりはちょっとマシ」を目指すことだ。この勝利は本能的な「傾向」への勝利である。

また、「すご〜い」という称賛を期待しないことだ。優劣に一喜一憂する本能的な傾向への勝利である。

「通常の同年代よりもちょっとマシを目指す」とは、通常なら、ここで落ち着くというありがちな確率に対して、自分を叱咤して、ちょっとだけ外れることを目指すのだ。

「すご〜い」を期待しないのは、人からどう見られるかといった自分の優劣を目指すことを避けるためだ。
これらに勝利することは、ひとりの敗者も出さないはずだ。しかし、勝利することは意外にも難しい。闘いは生涯続くだろう。

こんな簡単なことが出来ずに、自分とは何かについて悩む人もいるのだ。

敗者のいない勝利は、自分とは何かについての答を教えてくれる。それは自由をもたらすものだ。この知恵からは、どうあるべきかの答えを導き出すことが可能だからだ。

岡本太郎は、自分の問題は人間の問題、人間の問題は自分の問題だという視点をもつ。ぼくもそれと同じ意見だ。

そこからぼくは、自分の問題を解決する努力が、人間の問題を解決する努力だという視点を持った。これは人間にしかできないからだ。それには本能をどう考えるかということを考えないわけにはいかない。

本当はとても大切なことをテーマにしているけれど、こんなに短い内容で語れるはずもないのに、記事にしてしまった。これを読んで「そうだね」と言える人などいないのにだ。改めて書くことがあるかもしれない。


今日の知恵は、
「ひとりの敗者も出さない闘いを考えてみる」
だ。これは難しい。

参考文献:岡本太郎、太郎に訊け!3.青林工藝舎

     岡本太郎、美の呪力、新潮文庫