刺激と応答
生物の基本とは「刺激と応答」だといわれる。
何かに刺激を受け反応するということだ。感覚として意識にのぼらないものも刺激と応答である。
湿度や気温、雰囲気、音や匂いなどもそう。
人間の身体でいえば、それらにどう反応するかは人それぞれだ。好き嫌いがあるからだ。
病的に陥ると、健常とはだいぶ違う反応をするものだ。
ぼくは身体についての興味だけでなく、心についての興味も強い。行動や言葉にどう反応するかということだ。
心理学のように一般的な心理傾向だけでなく、それをどう乗り越えていくのかということにも興味がある。
そのせいかnoteの記事では、刺激から反応を引き出そうとするあまり、ついつい刺激的な言葉を使ったり、反感、反論したくなるようなことを書いてしまう。
しかし、noteの利用者様は、温厚で寛容な人ばかりで救われている。これは、そうしているぼくが経験しているのでお世辞ではない。
脳は推論するという働きがある。その推論するはずの脳が故障すると、現実とのズレが大きくなる。病気だということだ。そこから表われる現在は、正常とはだいぶ違うものだ。
「刺激と応答」は生物の基本であるがゆえに、病的に陥っても反応する。
また、偏った経験や思考が生み出す推論は、脳の推論が正常であっても、歪んだ思考が正常な推論を妨げることで、自らが苦しむことにもなる。
正常か異常かの判断は「快か不快」に強い影響を受ける。そのものだといってもいい。
いじめも好き嫌いという判断が、「嫌い」と判断すれば不快となり、排斥するか殺すかという行動を起こす。
面白くない例を挙げてしまったが、反対に刺激と応答は、自分自身を磨くことにも役に立っている。
「あんな人にはなりたくない!」「あんな人みたいになりたい」といった人格形成にも関与している。
気をつけておきたいのは、刺激と応答には、加齢による影響も強い。
若い時にはなかった反応が起きることもある。無視できていた刺激にも反応するようになる。特に、心配、不安、恐怖に対して過敏になるのだ。そして「死」についてもだ。
刺激と応答がある限り、思考を能動的に止めることはできない。「考え過ぎや考えるのをやめたい」と思ってもそうはならないのだ。
だからこそ、心や思考について学ぶと、考え方の工夫が生まれ、健常を維持することに寄与する。
考え方を間違えると病的に陥ることはよく知られているが、そうならないための知恵は、思い込みや期待を制御することだと思っている。
このことは、ほぼ興味を持たれていない分野である。科学というより文学的だからかもしれない。
とりあえず刺激と応答を理解して、うまく使いこなせれば、充実した人生を送れるのではないかと思っているがどうだろう。