利他的な行為は善であるとはいえない
利己的な行為は悪で、利他的な行為は善だと思われている。他人に施すことは良いことだというアレだ。
ぼくもずっとそのように思っていた。しかし、最近は少し違うぞと思えてきたのだ。アイン.ランドの思想がそう思わせたのかも知れない。
唐突だが、ぼくは、なぜか「るろうに剣心」が好きなのだ。先日テレビで少し観た。
佐藤健さんのボソボソの省エネセリフに聞き耳を立てながら観ていた。新しい国づくりために人を斬り殺していた人が主人公の話だ。
佐藤健さんの演技ばかり観ているので、意外に話の筋を知らないのだが、この「国のため」、「人のために」という利他意識による殺人は良いことだと信じて行った、「人斬り」の罪悪感が主人公にはある。
みんなのためにやった行為は、良いことのように思えるが、「利他のためには人を殺しても良い」という思考は正しいのかが気になった。
「みんなのために闘う」、この思考は、これまでの戦争もそうだったし、宗教の闘いでも用いれられる思考だ。他者を助けるために、別の他者を殺す。殺される側に立てば、たまったものではない。
この前は、悪者に赤ちゃんが殺されそうになっているところで、佐藤健扮する剣心が、悪者を退治しようとしているその時に、武井咲さんの「剣心!殺さないでぇぇぇー!」という奇声にイラつきながらテレビを観ていた。
「何で赤ちゃんが殺されかけているのに、助けようとする剣心を止める?」
「人殺しにしたくないからといって、赤ちゃんは殺されてもいいんか、なんだコイツ」
と話に入りすぎたりもした。
殺人を止めるのは、いい話のように思えるが、そうすれば赤ちゃんは殺される。
剣心には殺人者にはなって欲しくないから、赤ちゃんには死んでもらうという思考は怖いぞコイツ。
剣心のための「殺さないで!」という利他的な行為は、武井咲の利己的な感情を満足させることになる。
そうかといって、赤ちゃんを助けるためには、殺人は善だというのも矛盾を抱えることになる。
アイン.ランドの「自分は他人のために犠牲にならず、他人を自分の犠牲にせず」という思想を採用するなら、るろうに剣心のセリフは大きく変わる。
剣心は、「拙者は、人のために斬ったりはしないでござるよ〜」というセリフになるだろう。
武井咲は「赤ちゃんが殺されかけてるのになんで助けないのぉ!剣は何のためにあるのぉ!」と吠えるだろう。
剣心は、「拙者は、人の犠牲になって殺人犯になるのは御免でござるよ〜」というだろう。
武井咲は「赤ちゃんを見殺しにするなんて、剣心!それでもあんたは人間か!嫌い!」と気が狂わんばかりの奇声を発するかもしれない。
しかし、利他的であれば殺人も許されるのか。剣心は赤ちゃんを助けなかったことを後悔して生きるかもしれない。
武井咲は、その信念を満足させるために、剣心が殺人犯になっても構わないのだろうか。
しかし、武井咲の信念を満足させるためには、剣心の犠牲が必須だ。(武井咲ではないんだけど、きっと嫌いなんだろね)
どちらのストーリーにしろ、武井咲は自分勝手な悪い性格の奴だ。(武井咲ではないんだけどね)
ストーリーを知っている人にはわかる話だが、知らない人には「…」となる。一度観てほしい。
「そうでござるよ〜」とのんびりと観ていればいいものを、ややこしい見方をしてしまうが、道徳哲学の勉強になるかも知れないので紹介してしまった。
とにかく、利他的な行為は善だと思われているが、それもいきすぎると、戦争まで行き着くことが想像できる。
「だって、国民を守るためだもん!」と言えば済むからだ。
アイン.ランドのいうような「自分は他人の犠牲にならない。他人を自分の犠牲にはしない」という個の自立というのが代替案だと思うが、現状を観ると、それが拡まることは難しそうだ。
というのも、人間はコミニュケーションをとって生きていく生き物であり、群集心理が発生すると止められない。
社会が守ってくれるのではなく、ひとりひとりの「考えることの選択」が理想的なのだが、それが出来るとは想像し難いからである。
長っ!長過ぎた
今日はとりあえずこの辺りで終わって、そのうち続きを考えてみようと思う。
アニメファンの人は興醒めしないように適当に流しておいてほしい。