なぜ私は「なぜ私は理を考えるのか」を考えるのか ⑤~⑧編

 ひとまず「理」の個人編が終わった。また頂いたコメントに返信していきたいと思う。

コメント返し

 頂いたコメントに返信いたします。

0.(問題提起として)人と人同士において「何が正しいのか」という問いに対する回答として「理」を根底とした「正しさ」が普遍的になり得るとする(記事②より)
1.それがそこにある「理」は正しさの最小単位である
2.感情にも「理」は存在する
3.事象に対して発生した感情は分解できる
4.分解するには「観察深度」が必要である
5.「理」の「観察深度」は「人生経験(という概念)」に起因する
6.「人生経験(という概念)」は、生きてきて経験した事象に対する感情のことであり、厳密には他者と共有することはできない自分自身のものである
7.したがって人により「観察深度」は違うが、各々が最小まで分解した感情には必ず「理」が存在するので、全て「正しい」
8.「観察深度」は人ぞれぞれだが、最初に生まれでた感情は絶対的に「正しい」
9.結論として、どんな感情であれ、生じた感情のその全ては「正し」く存在を認めることができる
10.普遍的な「正しさ」(と言えるもののひとつ)は自分自身の感情の中に必ずある

vantileさん なぜ私は「理」を考えるのか⑧ コメントより抜粋

 私の駄文を非常に美しくまとめて頂いております。概ね記載されている通りで相違ありません。
 一点だけ。

 2.感情にも「理」は存在する

 というのは基本としてはその通りなのですが、全人類が普遍的に理解できる「理」が感情であるとしております。もし全人類が同一に知覚できる五感があるとしたら、そこにも「理」は存在します。
 現状私達が知覚できるのは、感情のみです。

ここで2つの疑問が生じます。
1つは、「0.」にて私が勝手に解釈した問題提起の、人と人同士の「何が正しいのか」に対する回答としては不適切になってしまうということ。他人同士の感情それぞれに「正しさ」が観念出来てしまい、倫理観やルールに代わる「ものさし」としての役目を果たせません。

vantileさん なぜ私は「理」を考えるのか⑧ コメントより抜粋

 ここは本当におっしゃる通りで、人と人との間の「正しさ」についてはまた別の議論にはなります。ただ、それを語る際の前提として、最初に生まれでた感情は「正しい」ということを今回定義させて頂きました。

個人の中においても矛盾する感情が発生した時に、その矛盾すらも「正し」くなってしまい、最終的には自己の完全承認になってしまう気がします。それは感情の「理」という範疇を飛び越えて、自己の存在の「理」であるように感じました。
例えば、「ムカつく」という感情を覚えた(これは「正しい」)→「ムカつく」という感情を覚えたことに対して「罪悪感」が生じた(これも「正しい」)→「罪悪感が生じたことを正しいと認知する自分」を「間違っている」と感じた(これも「正しい」)→「間違っていると感じた自分」も「正しい」or「正しくない」と感じた(どちらも「正しい」)→どんな自分でも「正しい」→エンドレス

vantileさん なぜ私は「理」を考えるのか⑧ コメントより抜粋

 ご指摘ありがとうございます。このご指摘、もっとよくかみ砕かなければならないと思っております。説明不足になっていたらすみません。
 一つ感じたのは、

「ムカつく」という感情を覚えた(これは「正しい」)→「ムカつく」という感情を覚えたことに対して「罪悪感」が生じた。

 この段階では「ムカつく」と「罪悪感」は別の事象に対する感情のため、違う分類になるとは思います。もちろんこの先にもメタ認知での感情なども生じ得ます。しかしそれが最終的に自己と同一になるかは、繰り返せば限りなく漸近するとは思いますが完全にイコールにはならないのではないでしょうか。

感情の対になる言葉として理性やら論理やらがあると思うのですが、「観察深度」の「人生経験(という概念)」は詰まるところ「経験」を「多角的な視点」や「論理的思考」で分解していくことだと思いました。そして、どんな角度から見ても自分自身のその感情は「正しい」と言えるわけで、「我思う故に我あり」=「自己の存在こそに『理』はあり」ということに繋がるのかと思いました。

vantileさん なぜ私は「理」を考えるのか⑧ コメントより抜粋

 ご指摘の通りで大筋間違いありません。そう考えてしまうと、結局私の考えていたことは大昔にデカルトが言っていたのかもしれないですね。「理」を考え始めてから、なぜかつての哲学者たちが物質の根源から考え始めたのか、少し理解できた気がします。まだまだ勉強不足ですね。

私が完全に理解出来ているかを棚上げしたまま、好き勝手にコメントさせてもらっていますが、誤解のないようにお伝えします。
私自身は元々、個人が描く内心での(感情を含めた)意思決定は、社会の倫理やルールとは別次元で、常に「正しい」と考えている人間なので、ここまでの主張に異論があるわけではなく、むしろ納得がいくと言いますか、現時点では同じような感覚で喜んでおります。

vantileさん なぜ私は「理」を考えるのか⑧ コメントより抜粋

 このような形でコメントをいただけること自体光栄です。私自身も、個人の意思は「正しい」と考えておりますが、なぜそうなのか、と問い続けた結果で今回のnoteになっています。是非今後も一緒に考えていければ嬉しいです。

 vantileさん、いつも長文の考察とコメントを頂きありがとうございます。扱う事象が実際の場面になり説明しやすくなる反面、論理の綻びも多いなと感じていました。以後もよりよい考察の参考にさせていただきます。


 今後も読者の方からの質問やご指摘をうけつけております。お互いがより良く理解を深められるよう、どしどしコメントくださいませ。

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