なぜ私は最近「理」に不安になるのか

 前回がほとんどコメント返しになってしまったので、今回で私の懸念を書きたいと思う。

私は正しさを判断しないできた

 何度も「正しさ」について述べてきた。これまでの私の基本的なスタンスとしては、恒久的な「正しさ」はよくわからないので判断はしない、善悪を定義しないで判断するということをやってきた。それは常に俯瞰的で第三者的で、深入りしすぎず全体像を把握するのみとして、判断は他人に一存してきた。
 だが、それにも転機が訪れるかもしれない。

「理」を定義してしまえば、「正しさ」の判断は可能になる

 これまで明確な判断基準を持っていなかった私にとって、「理」を正しいとするならば判断する基準が生まれてしまう。つまり何が「正しく」て何が「正しくない」のかが判断が可能になる。これはある側面では非常に良いことだ。普遍的で恒久的な判断基準が生まれるならば、私は生きるのに迷うことはなくなる。

 だが私は胸を張って「正しさ」を判断した経験がない。

 常に悩み、別の可能性を考え、他人の話と自分の心と対話し、最終的には今最も楽な方法を選んできた。これが人間のあり方なのだとすれば、果たして「理」を定義し、普遍的で恒久的な「正しさ」を生み出す行為はどういう意味をもつのだろうか。

しかし「理」について考えるのはやめるわけにはいかない

 「正しさ」の最小単位を探るのは、物質の最小単位を探るのに似ている。一度気になってしまえば、「その元はなんなのか」という思考を続けざるを得ない。それが自分自身の存在理由を問うことになろうと、私はそれをやめないだろう。
 


 ただ、世の中にはあまり物事の成り立ちについて特に興味もない人もいるらしい。うまいことわからない部分に目をつむりながら、日々を過ごすということもまた一つの才能なのだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?