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【よみか】映画「天気の子」の「無縁」っぷり



新海誠監督の前作「君の名は。」は大好きで、自分史上初、劇場で4回見たのだけれど、そこから3年、新海監督の最新作「天気の子」は果たしてどうか?

もちろん、映画としての良さ、という点で考えて、おおいにオススメで、ぜひ劇場でみてください。まだまだやっていると思います。僕も近々2度目を見に行くつもり。
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  (ネタバレあり)
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もちろん、天気の子は、すばらしい作品です。
それは揺るがない。

ということはどこまでも強調するとして、とはいえ、「君の名は。」の監督が次の作品でなにを表現したのか、そしてそれは「君の名は。」と比べてなにが違うのか。この点はいろいろな観点から考えてよいと思う。

●物語としては前作「君の名は。」ほど重層的じゃなし、読者を混乱させない。少なくとも、ストーリーの構造や順序がわからないからもう1回見て確認しなきゃということはない。ふつうに見てわかるし、まず表に出てくるメッセージの意味に迷うことはない。

雨が降り続く異常気象を、ヒロイン「明奈(ひな)」だけが止められる。そしてひなは実際に身を捧げて、雨を止めた。でも、主人公の帆高(ほたか)は彼女を取り戻したかった。ひなも彼の元に戻りたかった。

帆高は彼女を追い、彼女も帆高と地上に帰る選択をして、いったんは日差しが戻った東京は、再び雨が降り続くことになった。もしかしたら永遠に。

おおむねわかりやすいラブストーリーだし、雨が降り続く描写、雨空から日差しがさす美しい光景は、新海監督ならではの世界観といえる。

美しく、エンターテイメント性もあり、若い愛の物語。世界を救うより、自分たちの愛の方がだいじなんだ!! シンプルで力強い。

でも、本当にそういうオモテに見えるような物語の作品なんだろうか? 新海監督はこの作品を「前作よりもっと物議を醸すような、批判を受けるような作品にしたかった」と語っている。

※君の名は。について、新海監督は「saigaiをなかったことにするのか!」という批判が一番予想外できつかったと語っている。

一体どんな仕掛けを作品に練り込んだんだろうか?


●「僕たちはたしかに世界を変えた」

予告映像に登場するこの言葉。ふたりは世界のなにを、どう変えたのか?

少なくともふたりは意思を持って、雨が止んだ東京を、雨が降り続く東京に変えてしまった。雨が降り続き、東京の低地は水没して、500年前の埋め立て以前の東京に戻ってしまった。

※雨が降ったからって、本当に街が水没するんだろうか??

とはいえ、物語を見る限り、物語のはじめから雨は降り続いていて、ふたりはいったんは晴れる東京を作ったけれど(天気を、世界を変えたけど)、結局は雨の東京に戻してしまったので、ストーリー上は彼らは「世界を変えていない」ともいえる。

これはたしかに、重層的だ。

一方、物語の中に登場する「言い伝え」として、「昔から天気は大きく変動する、そのときに少女の生け贄があると、天気は元に戻る」という逸話が登場する。これに従えば、「雨が降りつづき、ひなの義性で雨が上がる」というストーリーこそが「世界そのもの」であり、その世界そのものをひなと帆高が変えてしまった、というのが、メッセージなのかもしれない。

とはいえ、この説明には納得いかないものが残る。一般に犠牲というのは、犠牲になる少女は本当は犠牲になりたくないが、犠牲を求める神と自分たちの恩恵のために犠牲を探し、差しだそうとのぞむ、人々の願いによって成立する。

天気の子では、ひなが犠牲の少女であることを一般市民は知らない。ひなは一般市民の求めに応じて心を残しながら犠牲になるのではなく、むしろ愛する帆高の希望に合わせる形で犠牲になる。構造がおかしい。

新海監督は、ふたりは世界のなにを変えた、ことにしたかったのだろうか? けっこう謎だ。

犠牲の物語という観点で言えば、本質的には功利主義の物語になる。功利主義とは、一般には「最大多数の最大幸福を重視する思想である。晴れた東京という多くの人にのって望ましい「最大多数の最大幸福」を求めるとき、比較して一人の少女の不幸があるとしても、犠牲は容認しよう、それ積極的に選択すべき社会善である、と考える。

しかし同じく思想的対立軸で考えると、功利主義の比較対照は自由主義(リベラル、または、リバタリアニズム)になり、だとすると、ひな、またはひなを救いたい帆高の目的は、ひなの自由であるはずだ。でも天気の子で描かれるのは、ひなが自由を求め、帆高がそれを助けるという構図ではなく、ひなは天に昇ることを受け入れ、帆高が受け入れないという構図だ。そこには功利主義に対する自由の問題はほとんど見えない。

この物語はなにをめぐる物語なのだろうか?


●「何も引かないで」「何も足さないで」

もう一つ、天気を巡る焦点は、ひな、帆高、ひなの弟・凪をめぐる、孤独と社会的無縁だ。

ひなと凪は孤児で、ふたりでひっそり暮らしている。ひなと凪は未成年だから、本来なら施設に入ることになる。施設に入るとふたりは別々になってしまうから、田端の古いアパートで年齢を偽って暮らしている。ひなは15歳なのに18歳と偽り、ハンバーガーショップで働くが、失業して、ソープに沈められそうになるところで帆高とで会う。

帆高は伊豆七島の閉塞した島から家出してきて、編集者の圭介に拾われる。

ひなと凪と帆高の不思議な共同性に対して、それ以外のおとなとのかかわりは本当に希薄だ。

圭介は家出少年を拾って仕事をくれるけれど、うまいことカネや労働時間を巻き上げたりもするし、帆高が警察に追われると保身のためにあっさり売ってしまう。帆高も、世話になった圭介に銃を向けるシーンもある。ひなは重病の母親を看病中一人飛び出して雨の中、廃ビルの屋上で日差しがさすのを見に行ってしまう(最後に一度だけ晴れた空を見せたかったと言うけど)。人間関係が希薄でけっこう殺伐としている。温かみにほっとする場面がほとんどない(ひなが料理をつくる場面はそれにあたるが、それにしてはひどすぎる食事)。ただ、帆高とひなと凪だけが、暖かなコミュニティをつくるものの、帆高はずっとひなが年上だと思い込んでいたし、実際の年齢がわかってからも、年上の感覚のままでいる(いようとする=距離を取る)。

さらに、ラストに近く、帆高がひなを天から取り戻してから、帆高は島に戻り、数年を経てようやくひなと再会する(会いに行く)。なぜ数年を待たなければならなかったのか。島にいるとはいえ数時間でこれる東京。電話もスマホもあるのに、なぜ会わずに「みそぎ」のような期間をおくのか。

実はこの「みそぎ的な時間」は最近のアニメでは「3D彼女 リアルガール」にも登場する。この物語ではもっと長く、高校3年生で突然失踪した彼女と、彼が再会するのは、6~7年後ぐらいの設定だ。なぜこんなに長くみそぎの期間をおくのか本当に意味がわからない。今の若い人は気長になったんだろうか?

※ちなみに「3D彼女リアルガール」では彼女が人格喪失して米国にいる、という設定としても、恋人だった彼に生存していることさえも誰も連絡してあげようとしないという設定が意味不明すぎる。

天気の子では帆高、ひな、凪の3人を追う警察にたいしてひなが「何も引かないで」「何も足さないで」と叫ぶシーンがある。

社会の中で捨て置かれ、まったく顧みられることがなかった3人は、犯罪者として扱われるようになっていきなり社会の一員として扱われ、静かな生活を破壊されて、望まない「施設」「自宅」に送られる。社会は、いわば「真面目に生きている」ときにはまったく手を差し伸べてくれず、「問題を起こした」時だけ突然現れ、してほしくないことをしていく。

そういう状況を描いておいて、新海監督からのメッセージはひなの「何も奪わないで」「何も変えないで」なのだ。

なぜ「これからは君たちを捨て置かない」という包摂性を持ったおとなが登場しないのだろうか?

包摂性を持ったおとな、らしい人は、編集者の圭介だけだが、前述の通り圭介は自分の幸福のために3人を警察に売ってしまう。まったく包摂しない。他に包摂してくれる大人もいない。むしろ「天気」だけがひなを迎え入れ、包摂している(役割を与えて、満たす)ようにも見える。

※「天」だけがひなに自己効力感を与えているようにも見える。

「無縁」の世界に生きる3人の子どもたちは、結局最後まで縁に結ばれない。ひとりでも(3人だけでも)強く生きて行くのだという「橋下徹→安部晋三的自己責任論」のなかにいるラストシーンが、多くの現代を生きる観客に感動の涙を与えるというこの物語をどう理解すればいいのだろうか? 現代日本では物語の中にさえ包摂された世界はないのだろうか?

「何も引かないで」「何も足さないで」の「足さないで」(どうせしてほしいことは何もしてくれない)こそが、現代の若者の絶望の叫びに聞こえる。

ということで、こうしてみてみると、疑問だらけで、実はすっきりしない物語という点では、「君の名は。」より難解なのかも?
(by paco)

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