見出し画像

パシフィコ・エナジーが“マイノリティ”であり続けることの意味とは?

世界中で「脱炭素」の動きが加速している今、大きな注目と期待が集まっている再生可能エネルギー。本シリーズ「エネルギーの未来について語ろう」は、そんな再生可能エネルギーに秘められた可能性や魅力について、パシフィコ・エナジーで働く「中の人」や関係者に、それぞれの想いを語ってもらう記事コンテンツです。

今回から登場するのは、パシフィコ・エナジーの太陽光発電事業開発部門の推進部門長を務める吉田憲二(よしだけんじ)。前回までの記事に登場した密本と共同で部門長を務め、過去には2人で起業していた経歴もあるメンバーです。3回に渡ってお届けする第1回目の今回は、吉田がパシフィコ・エナジーに入社するまでの歩みについてお話します。

卒業間際に内定先が倒産、波乱の社会人生活のスタート

パシフィコ・エナジー株式会社 太陽光発電事業開発部門 推進部門長 吉田憲二

太陽光発電事業開発部門の推進部門長を務めている吉田憲二です。

前回までの記事に登場した密本曜大と共同で、太陽光発電事業開発部門での推進部門長を務めています。私がパシフィコ・エナジーに入社したのは2013年8月のこと。ほぼ創業メンバーに近い形ですが、パシフィコ・エナジーに入社する前は密本と共に立ち上げた太陽光発電開発コンサルティング会社を自ら経営していました。今回はまず、私がパシフィコ・エナジーに入社するまでの歩みについて、ざっくりお話させていただければと思います。

もともと、私は「マイノリティ(少数派)こそ正義」という価値観を大切に生きてきたようなところがありました。

大学選択時、私は建築やインテリアの分野に興味を持っていたのですが、ストレートに建築系の学部に進んだり、皆が目指すような大学を選んだりするのはちょっと違うなと考えて、“生活科学部居住環境学科”というややマイナーな学部に進学。大学入学後は建築を学びながら、“起業”というものにぼんやりと興味が湧いたため、学生向けの起業セミナーや事業企画の提案コンペなどによく顔を出していました。

そういったセミナーやコンペの中には、胡散臭いものも多々ありましたが、とりあえず飛び込んでみれば、おもしろい出会いもあるかもしれない。そのような“セレンディピティ”的な出会いを期待して、積極的に動いていました。実際、そうした活動の中で知り合った友人を通じて、後に密本と出会ったこともあり、そこでの人と人とのつながりは無駄じゃなかったな……と感じています。

学生時代には飲食店づくりに携わったりもしました

起業に興味はあったものの、まだまだ何かを生み出せる力もなく、いずれ自分で会社やビジネスを立ち上げるにもまずは下積みがいるだろうと考え、大学4年の5月に不動産金融を取り扱うベンチャー企業の商業施設設計・デザイン等の配属として内定をもらいました。就活をする中でも、「マイノリティ(少数派)にこそチャンスがある」という価値観を大切に、大手企業よりもベンチャー企業ばかりを選んで受けていました。

しかし、大学卒業後の3月下旬に事件が起こります。学生身分で企業の内情を見極めることはできず、内定先の企業が突如、倒産してしまったのです。卒業旅行から帰ってきて、自分が入社する会社のホームページを見たら“民事再生”の文字が飛び込んできたときの絶望的な気持ちは今でも鮮明に覚えています(笑)。

気を取り直して翌日からアクションを開始し、以前から運営協力をさせていただいていた就職支援セミナーの講師の方経由で、なんとか3月の最終週に運良く行政書士法人から内定をいただきました。入社3日前くらいに内定が決まるギリギリのスピード感で、まさに怒涛の大学生活最終月でした。

建築を勉強していたこともあり、学生時代にはヨーロッパの建築を見て回ったりも

社会人としてくすぶる中で起業を決意

そうして、運良く拾ってもらって入社した行政書士法人ですが、入社して3年ほど経った頃、起業への熱が再燃してきました。

社会人3年目くらいに差し掛かると、少し周りを見る余裕が出てきて、同世代の様子が気になってきたりするのは社会人あるあるだと思います。飲み会で「最近、こんなでかい仕事をやった」というような他社で働く同級生の話を聞くと、隣の芝が青く見えてしまい、自分も何かデカいことを一発かまさねば……と焦ってくる(笑)。自分を拾ってくれた会社に恩義は感じていましたが、将来の道筋を描き切れないというジレンマもあり、自分自身どこかくすぶっていた部分も大きかったのかもしれません。そんな時に、友人の紹介で出会ったのが密本でした。

密本は当時、新卒で入社した外資系の事業用不動産コンサルティング会社で営業をやっていましたが、彼もまたどこかくすぶっているような匂いを漂わせていて、お互いにシンパシーを感じた部分があったのかもしれません。意気投合した我々は、若さと勢いに任せてほどなく起業を決意。太陽光発電開発コンサルティング会社Synergeoを2012年1月に立ち上げました。

Synergeoを立ち上げたばかりの頃の写真。ちなみに写真右が密本

私は2012年3月いっぱいで勤めていた行政書士法人を辞めて、自分の会社に専念するようになります。しかし、そこから苦戦を強いられる日々が続いたのは、密本の話でもあった通りです。そんな苦しい時期が続く中で出会ったのが、当時パシフィコ・エナジーを立ち上げたばかりのネイト・フランクリンと金當さんの創業者2人でした。

許認可まわりを担う人材として、パシフィコ・エナジーへ入社

当時、ネイトと金當さんは太陽光発電に適した日本国内の土地を探していました。我々は土地の情報だけは豊富に持っていたので、Synergeoが持っている情報を2人にプレゼンし、そこからパシフィコ・エナジーと事業パートナーのような付き合いがスタートしました。

その後、2012年12月に密本がSynergeoを離脱してパシフィコ・エナジーにジョイン。私は密本が抜けた後もしばらくSynergeoの経営を続けていましたが、ある日、パシフィコ側から手伝って欲しいことがあると依頼を受けます。

当時、創業間もないベンチャー企業だったパシフィコ・エナジーは細かい事務作業や書類まわりの手続きにまで手が回りきっていない状況でした。その一方、投資家など外部のステークホルダーに向けて、パシフィコ・エナジーがやろうとしている事業の“確からしさ”を説明しなければいけないシチュエーションも増えていたのです。

ここでいう“確からしさ”とはつまり、発電事業に足るような許認可等の手続きをしっかり進めていることを証明して、開発案件としての信頼性を外部に提示する……というようなことを意味します。

そうした許認可まわりの業務を引き受ける者として、白羽の矢が立ったのが私でした。当時、私はまだパシフィコ・エナジーの正式な社員ではありませんでしたが、試用期間のような形で、数十にも及ぶ許認可の要否を全案件整理し、行政や地域当局と連絡を取りながらレポートを作成、それを英語に翻訳してフィードバックするなどの業務を行ないました。

その際の働きぶりがどうにか評価してもらえたようで、許認可まわりの業務を担う人材として、パシフィコ・エナジーへの正式な入社が決まります。2013年の8月のことでした。

パシフィコ・エナジーに入社したばかりの頃の写真。金當さんと密本と一緒に

がむしゃらに働く日々を経て、許認可のプロフェッショナルへ

太陽光発電所開発にあたって、取得しなければならない許認可は多岐にわたります。1つのプロジェクトで少なくとも10~20、場合によっては数十近い許認可を取らなければならないケースも。特に重要な許認可が、森林を開発する際に不可欠な「林地開発許可」と、道路の地中に一定の工作物を設けたり、送電線を埋設したりする際に必要な「道路占用許可」の2つです。

しかし、パシフィコ・エナジー創業当初はまだ、どのような許認可を、どのような手順で取得すればよいのかしっかりしたセオリーが確立されておらず、私自身はもちろん、社内のメンバーも手探り状態でした。とにかく地道に、どのような許認可をどこに取るべきなのか一つずつ確認を取り、実務を通してもれなく頭に叩き込んでいけたのは貴重な経験になりました。

2014年、松尾社長と共に事業実施協定調印式に臨んだときの様子

私自身、新社会人として行政書士法人で働いていた頃から細かな書類仕事はわりと得意でした。気質的にも自分の携わる仕事については隅々まで把握して、不測の事態はなるべく未然に防ぎたいタイプなので、許認可まわりの仕事は自分の性にも合っていたように思えます。私とは対照的に密本は猪突猛進型の行動派タイプ。ですから、同じ開発部門で部門長を務めている私たちはある意味、バランスが取れているのかもしれません(笑)。

また、今でこそ会社が大きくなり、セクション分けもされてそれぞれの社員の専門分野が確立されてきていますが、創業当初はとにかく人手が足りなかったこともあり、自分の担当外・専門外であっても可能なかぎり自分でやれることは自分の手でやらなければならない環境でした。そんな気概とベンチャーマインドを叩き込まれたのも良い経験だったように思います。

入社当時の私は、何か専門的な知識があったり「これぞ!」という得意分野や強みがあったわけではありません。だからこそ、自分の価値とプレゼンスを示すためには、できることは何でもやらなければならない。そんな必死さもありました。

今思えば、かなり効率の悪い働き方をしていたようにも思えますが、“量が質に転化する”ことを信じて、とにかくがむしゃらに手を動かし、ひたすら自分にできる仕事をこなし続ける日々が4〜5年は続きました。

マイノリティこそ正義、それは再エネ事業においても同じ

開発に携わった発電所にて完成後に撮影した一枚

マイノリティこそ正義。私がそのような価値観を大切にしてきたことをお話しましたが、それは再エネ事業においても同じだと感じています。振り返れば、パシフィコ・エナジーは立ち上げ当初から現在に至るまで、一貫して再エネ事業者としてはマイノリティであり続けてきたように思います。

再エネ事業者の多くは、利益最優先でビジネスを展開する企業がほとんどで、それは企業のあり方としては当然の姿勢かもしれません。だからこそ、儲けが見込めなくなってしまうと、多くの再エネ事業者が早々に見切りをつけて市場から撤退していきました。

一方、パシフィコ・エナジーは利益ももちろんですが、何よりも「少しでも世の中に再エネを普及させたい」という想いのもと、再エネ事業を展開し、そのためのさまざまな創意工夫を行なってきた会社です。まさにその点こそが、市場から淘汰され消えていった再エネ事業者と、我々パシフィコ・エナジーを分かつ最大のポイントだったように思えます。

やや人生哲学めいた話になってしまいますが、1人の人間が人生で使える時間は有限です。限られた時間の中で自分の価値を最大化し、何かの役に立っていくためには、複数の得意分野を組み合わせて自分にしかできないことを見つけ、可能な限りそこに時間とリソースを費やしていく必要がある。そしてそれは、ビジネスにおいても同じことが言えると思うのです。言い換えるなら、今後もマイノリティであり続けることに、再エネ事業者としての私たちの勝機があるということです。

私は再エネの価値や新たな再エネ発電所の必要性は、世の中的にも、これからさらに高まっていくものと信じています。そして、その需要が高まっていけば、私たちが新しく生み出す太陽光発電所やエネルギーの価値もこれから自ずと高まっていくはずです。ゆくゆくはそうなることを期待して、これまで積み重ねてきたことをさらに貫徹し、今後もやり続けていくこと。私たちにできることを、あきらめず、焦らずにやっていこうと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?