ケルト人の盾について――主に考古学から

ケルト人といえば戦士、戦士といえば盾。今回はケルト人がどのような盾を使っていたのか、少しご紹介いたします。もしかしたらケルト人の戦士が盾を使っていたというイメージはないかもしれませんが、皆さんがご存知のあのアルスターの英雄だってちゃんと盾を持っていました。「ブリクリウの饗宴」には次のような場面があります。

彼ら三人(クー・フラン、コナル・ケルナッハ、ロイガレ・ブアダハ)は館の真ん中に立ち、盾と剣を手に取った。彼らは剣と槍の穂先で互いに切りつけたので、館の半分が切っ先のぶつかり合いから生まれる火花の閃光で満たされ、もう半分は盾の石灰から飛び出した白く輝く鳥で満たされたかのようだった。(「ブリクリウの饗宴」、¶15、拙訳。noteではこちら

これは英雄たちがブリクリウの甘言に乗せられ、彼の開いた宴会の席上で〈英雄の分け前〉をめぐって言い争い、衝突した場面です。ここではクー・フランら三人が互いに武器で攻撃し、それを盾で防いでいます。盾の装飾には石灰が用いられており、それが飛び散って部屋中にばら撒かれた様が、まるで白い鳥が飛ぶように見えたのですね。

この他にも、「ブリクリウの饗宴」では所々で盾に関する言及がありますが、そこからもう一つ、クー・フランの発言を抜き出しましょう。

「俺の盾と剣にかけて、俺はあの大男との約束を果たすまで逃げることはない。俺の眼前には死があり、名誉ある死は(それを避けるよりも)俺にとっては良いことだからだ」(同上、¶99。noteではこちら

これは「ブリクリウの饗宴」クライマックスの場面です。姿を野卑な大男にやつして現れたマンスター国王のクー・ロイ・マク・ダーリェが、自分の頭を斧で切り落とさせ、次の日にはお返しに相手の首を切り落とす、という勇気を試す挑戦をアルスターの英雄たちに対して行いました(クー・ロイ王は魔法使いなので、首を切られても死なず、切り落とされた自分の首を持って平然と帰るのです)。その挑戦を受けたクー・フランが、自分の首を切り落としにやって来る大男(クー・ロイ)を待っている場面でのセリフです。ここではクー・フランが己の約束を守る担保として剣に並んで盾を挙げているので、盾は剣と同程度に重要視されていたという推測もできそうです。


さて、ケルト人と一口に言っても、多くの場合大陸ケルト人と島嶼ケルト人とを区別すべきではあり、盾に関しても違いがあるようなので、区別して書きます。サイモン・ジェームズ『図説ケルト』、木村正俊・松村賢一編『ケルト文化事典』には大陸ケルト人の盾について、W. G. Wood-Martin, Pagan Ireland、P. W. Joyce, A smaller social history of ancient Irelandには島嶼ケルト人(アイルランド)の盾に関して、それぞれ書かれています(ただしW. G. Wood-MartinとP. W. Joyceの本は少々古く、さらに後者は記述もだいぶ不明瞭であまりよい文献とは言えません)。

ケルト人の盾に関する一次資料は、考古学的な遺物がメインですが、大陸ケルト人のものについてはカエサルやディオドロスなどのギリシア・ローマの著述家たちの記述もあります。またアイルランドの場合、キリスト教時代(AD5世紀~)初期の石の浮彫りに戦闘などの場面が描かれ、それらの図像に盾もまた含まれています。


1.大陸ケルト人の盾

最初期のケルト人の盾は木製か皮製で、比較的小型で丸い形をしていました。この時期の盾については、恐らく資料の少なさからか、あまり詳しいことはわかっていないように思われます。

ハルシュタット期(BC1200~BC475)のある時期からは、卵形や縦長の六角形のような細長い形になり、木製または皮製、あるいは小枝の編み細工製で、金属により補強されるものもありました。

ヌーシャテル湖から出土したラ・テーヌ期(BC450~BC100以降)の盾は長さ1.1mですが、ディオドロスの記述では身長くらいの高さの盾を用いたとあり、ウェルギリウスの記述でも盾はケルト人の体を守ったとあるので、もっと大きい盾が用いられていたと予想されます。またケルト人が盾に寄りかかっていたという記述もあるらしいので、サイモン・ジェームズは1.3~1.4mほどだったのではないかと推測しています。実際1.7mもの高さのものも発見されており、ラ・テーヌ期はとにかく大きい盾が好まれていたようです。時代が下るにつれて盾が大型化しているものと思われます。

ラ・テーヌ期の盾は中心を木の棒で補強し、また表面と裏の平面部は皮や毛織物で補強、盾の上辺は金属で補強していました。しかし盾の厚みは最も厚いところで11mm、端の薄い所では3~4mmしかなかったため、防御効果はあまり高くなく、剣で刺し貫けるというカエサルの記述と合致しています。

盾の表面には装飾が施され、様々な色彩と紋様が描かれました。文様はトルク(一部が開いた環状の首輪)や動物などだったようです。動物としては、恐らく熊や猪、犬などでしょうか。イギリスはテムズ川から発見されたバタシー(Battersea)の盾や同じくイギリスのウィザム川(the River Witham)の盾は金属製で、素晴らしい装飾が施されています(ブリテン島は島嶼部ですが、これらの盾に施されているのは大陸ケルト人のラ・テーヌ美術に典型的な装飾のためラ・テーヌ文化の流れに含まれるようです)。これらの盾は戦闘には耐えられないつくりであるとのことで、儀礼用か芸術品であると考えられています。バタシーの盾は大英博物館に所蔵されており、かなり細かいところまで写真で見れます。URL: http://www.britishmuseum.org/research/collection_online/collection_object_details/collection_image_gallery.aspx?partid=1&assetid=23170001&objectid=831341

図1:バタシーの盾:前部全体

図2:バタシーの盾:前部詳細


2.アイルランドの盾

アイルランドの盾は、大陸ケルト人の者と比べると、サイズの面でかなり違いが認められます。アイルランドの最も古い盾は枝編み細工で、卵形をしていました。それゆえに、現代アイルランド語では同じ形の枝編みの籠を盾と同じscíathという単語で言い表すほどです。

先述したように、初期キリスト教の石の浮彫りに描かれた戦闘などの場面に盾もまた見られ、そこではかなり小型の、円形の盾を使っているのです。そして中央には丸い青銅などの金属製の突起があるものもありました(図3を参照)。これらの突起は青銅製ゆえか、多く発見されているようです。

図3:石の十字架に浮彫りで描かれた戦闘の場面。左の二人は槍と中央に突起のついた盾を、右の三人は剣と突起のない盾を持っている(Pagan Ireland, p. 467より)

盾は枝編み細工、あるいはイチイの木で作られたりしました。先述したように円形かつ小型で、直径は13~20インチ。表面は皮などで覆い、色を塗ったり、動物などの図を描いたりして装飾されていたようです。色として最も多いのは白で、それ以外には赤や褐色などがあったようです。皮覆いをされた盾を白く色付けするときは石灰で行われ、盾が乾燥し固くなるという効果もありました。

また、木の盾ほどではないですが、青銅製の盾も存在したようです。図4・5は湿地で発見された青銅製の盾です。この盾も元々は皮で補強されていたと考えられています。

図4:Lough Gurの付近の湿地で発見された青銅製の盾。直径28インチ(A smaller social history of ancient Ireland, p. 61より)

図5:同上、裏面(A smaller social history of ancient Ireland, p. 61より)

アイルランドのこのような特徴の盾はかなり後代まで変わらなかったようであり、スコットランドのYetholinで1837年に発見された盾は、上記のような特徴にほぼ全て合致し、またアルスターでは枝編み細工の盾が16世紀まで使われていたとのことです。


さて、かなり雑ですが、ケルト人の盾について、軽くまとめてみました。アイルランドのものについては、もっと新しい資料が手に入れば良かったのですが。こうして武器や道具を具体的に知ることで、伝承を読むときに想像しやすくなるかもしれませんね。


参照文献:

W. G. Wood-Martin, Pagan Ireland, 1895.
P. W. Joyce, A smaller social history of ancient Ireland, 1906.
サイモン・ジェームズ著、井村君江監訳、『図説ケルト』、2000年
木村正俊・松村賢一編、『ケルト文化事典』、2015年

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