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ケルト神話の結構専門的な知識:写本について

ケルト神話通を気取りたかったら、写本の話をするとよいでしょう。


今回は、ケルト神話がいかなる形で現代まで伝えられているのかを説明します。


1.写本とは何か

とりあえず、アイルランドに絞って話をしましょう。

まず写本一般の説明ですが、Wikipediaによれば

写本(しゃほん、Manuscript)とは、手書きで複製された本や文書、またはその行為そのものを指して示す用語。時に、原本(オリジナル)である正本(しょうほん・せいほん)と対応させて、それを書き写した書写本であることを強調するために用いられることもある。

つまり手書きで書き写されたものなわけですね。余談ですが、manuscriptのmanuは「手」を、scriptは「書かれたもの」を意味します。

ここではアイルランドの伝承が書き写された書物を問題にしています。アイルランドの神話や伝説は、それらによって現代まで伝えられています。こういった写本は、中世中期(12世紀)から近世ごろまで存在します。我々の手に渡るときは、そこからそれぞれの物語が文字起こしされ、タイプされ、書籍として出版されることになります。

写本は、現代のような紙の他に、古いものはヴェラム (vellum) と呼ばれる牛皮の紙が使われています。それらの表面に文字が刻まれるわけですが、文字もやはり異なります。古い文字はアンシャル体と呼ばれるアルファベットを、16世紀以降はクロー・ゲーラッハ (Cló Gaelach) というアルファベットを使っています。では、まず前者の例をお見せします。

文字の形がブロック体とは異なるものの、よく見れば判読できるでしょうか。画像は『褐牛の書』あるいは『赤牛の書』などと訳される有名な写本です(下記参照)。書かれたのは12世紀。この写真はIrish Script On Screen - Meamram Páipéar Ríomhaireというサイトで無料公開されているものです。

次に、クロー・ゲーラッハです。これはWikipediaに例となる画像がありますので、それを引用します。

一番左の列がブロック体で、それ以外の各列がクロー・ゲーラッハでの対応するアルファベットです。列の上にあるのは地名です。土地によって微妙に形が異なっているのがわかりますね。このような文字で写本は書かれています。

さてそれでは、このような写本に書かれている物語は、どのような来歴を持っているのでしょうか。次に説明するのは、口承による伝承です。


2.写本以前の来歴:口承伝承と詩人

アイルランドの伝承物語は、口伝え、つまり口承によって語り伝えられていました。ふつう、神話や伝説などははじめ交渉として成立し、その後文字で書きとめられます。アイルランドの場合も例外ではありません。例えば日本の『古事記』などもそうです。そしてその口承の主たる担い手は、アイルランドの場合、詩人たちでした。

アイルランドには、専門的な職業としての詩人が存在していました。アイルランド語でバルド (bard) やフィーリ (fili) と呼ばれるのがそれです。bardの方は英語で借用語となり、もはや古語ですが、詩人一般を指す意味でも使われていました。

彼らはいくつもの伝承を覚え、人々の前でそれを披露し、また詩人どうしで物語を交換し合ったりもしていました。彼らは王宮などで貴人に物語を聞かせたり、より身分の低い人たちの前で語ったりもしていました。そうやって様々な物語が伝えられていき、また新たに生み出されたり、膨らまされたりしていったのです。

さて、そういった形で伝えられてきた物語が、どのように文字として記録されたのか。ここではキリスト教が関わってきます。


3.修道院における写本文化

アイルランドにキリスト教が伝えられたのは5世紀のことです。アイルランドの守護聖人である聖パトリックがはじめてアイルランドにキリスト教を伝道したとのことですが、異論もあります。

いずれにしろ、それ以降キリスト教はアイルランドで急速に、また比較的平和に普及していき、間もなくほぼ全土のキリスト教化がなされました。

アイルランドのキリスト教文化において特徴的なのは修道院の存在で、大量の修道院が存在していました。そこでは写本制作を専門とする修道士がいて、様々な写本がつくられていました。アイルランドの土着の伝承以外にも、聖書写本は非常に名高く、8世紀の『ケルズの書』をはじめとする美麗な装飾写本が数多く存在します。

恐らく最初は、詩人などから聞き取った物語を写本に記録したのでしょう。そういったものが底本とされ、新たに別の写本が制作され、という風に写本から写本へ物語が書き写されていった。そのうち現存する写本が、近現代以降は活字化され、本として出版され、またあるいは翻訳され、私たちにそれらの物語を語ってくれているわけです。遥か昔から続いている営みの一番端に、私たちがいるのです。


4.主な写本

さて、アイルランドの神話や伝説を記録した写本には、どのようなものがあるのでしょうか。最後に、そのうち代表的なものを紹介します。

『褐牛の書』(Lebor na hUidre, LU; The Book of Dun Cow)

最古の写本。12世紀、1106年以前。破損しており、67枚のみ現存。アルスター伝承群の白眉「クアルンゲの牛捕り」や、「ダ・デルガの館の崩壊」、「ブリクリウの饗宴」、「エウェルへの求婚」、「フェヴァルの息子ブランの航海」など。現在はアイルランド王立協会所蔵。

『レンスターの書』(Lebor Laignech, LL; Book of Leinster)

『褐牛の書』の次に古い。12世紀後半。こちらにも「クアルンゲの牛捕り」が書かれており、他には神話的偽史「侵略の書」をはじめ、多数の伝承を収録。Wikipediaに内容のリストがある。現在はダブリンのユニバーシティ・カレッジ所蔵。

Bodleian Library, MS Rawlinson B 512 (Rawlinson B 512)

15-16世紀。特別な名前はないが、よく言及される写本。「侵略の書」、「コンホヴァルの誕生」、「マク・ダー・ソーの豚の物語」、「エウェルへの求婚」など。現在はオックスフォード大学のボドリー図書館所蔵。


以上に挙げたのはほんのわずかな例に過ぎませんが、同じ物語が複数の写本に書かれていることもあるというのが、お分かりになったと思います。そしてそういった別々の写本に書かれているものは、微妙に内容が異なったりしております。また欠落部分が他の写本で補われたりもします。出版されているものは、複数の写本から編集を行い、最終的に一つのテクストとして提示しているわけです。各写本で記述が異なる場合は、脚注で表示されるなどが通常です。


さて、アイルランドの神話や伝説が私たちのところにたどり着くまでに、いろんな人が関わってきたということがおわかりでしょうか。みなさんも、自分が読んでいるものがどの写本に掲載されているか、調べてみてはいかがでしょう。あるいは、他の文化の神話や伝説の来歴を調べてみるのも面白いかもしれませんね。


参照文献:

・James MacKillop, "Dictionary of Celtic Mythology", 1998.

・Barry Cunliffe, "The Celts: A Very Short Introduction", 2003.

・David Stifter, "Sengoídelc: Old Irish for Beginners", 2006.

・T.G.E.パウエル、『ケルト人の世界』、笹田公明訳、1990年[1958年]

・Wikipedia(各写本について)

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