邦訳されたアイルランドの神話・伝説

ご存知でしょうか。

一般に「ケルト神話」と言った場合、大抵の人はアイルランドの神話・伝説のことを言っていますが、それらの伝承文学は、ほとんど日本語に翻訳されていないのです。今回は邦訳されたテクストをご紹介します。

「ケルト神話なら日本語の本で読んだことがある」と仰る方もいるでしょう。しかしここで言っている「翻訳」というのは、原典を一文ずつ日本語に訳していったりもの、つまり「全訳」「完訳」のことを指しているものとお思いください。なので、おおまかな内容をまとめたようなもののことではありません。後者は「抄訳」と呼ぶのが適当かと思われます。

そのような「抄訳」ならば、日本にはたくさんあるんです。井村君江『ケルトの神話―女神と英雄と妖精と』や八住利雄『アイルランドの神話伝説』(世界神話伝説体系シリーズ)などが代表的でしょうか。勿論、これらの本は大まかな内容を知るには良い手段です。特に『アイルランドの神話伝説』は古い本ですが、各物語群をなかなか手広くカバーしています。

しかし、それだけでは十分ではありません。「もっと知りたい」「原典を読みたい」という段階がいずれ来ます。しかし、この段階でハードルが一気に上がってしまうのです。なぜなら、英語が読めないといけないからです。

アイルランドはイギリスの隣にあり、しかも英語が第一言語です。そのため、アイルランドの伝承の研究の本場は、アイルランドとイギリスであると言っていいでしょう(19世紀~20世紀初めごろまではドイツでも盛んでしたが、今ではそれほどでもないようです)。英語による文献は非常に豊富であり、事典類もさることながら、原典の英訳も進んでおります。英語さえできれば、それらのテクストに触れたり、情報を得たりすることができます。そう、英語さえできれば。そこが日本人にとっては、大きなボトルネックなのです。

日本におけるアイルランドの神話・伝説関連の事典類は、日本人著者の場合はあまり信頼できないものが多いようですが、邦訳されたもののなかには信頼できる本もあります。ベルンハルト・マイヤー『ケルト事典』、ミランダ・グリーン『ケルト神話・伝説事典』などがあります。前者は非常に残念ながら、文献リストが削除されています。後者にはしっかり載せてありますので、さらなる調査に乗り出すことができます。

さて、ようやく本題ですが、日本語に全訳されたアイルランドの神話・伝説テクストは、どのようなものがあるのでしょうか。

まず、松村賢一著『ケルトの古歌『ブランの航海』序説―補遺 異界と海界の彼方』(1997年)の中に、「ブランの航海」(Immram Brain) のアイルランド語からの対訳が含まれています。

次に、中央大学人文科学研究所編『ケルティック・テクストを巡る』(2013年)には、「ダ・デルガの館の崩壊」(Togail Bruidne Dá Derga) の完訳があります。どうやら訳者は同じく松村賢一氏で、アイルランド語からのようです。松村氏による解説も収録されています。

そして栩木伸明訳『トーイン―クアルンゲの牛捕り』(2011年)は、キアラン・カーソンの英訳からの重訳です。重訳は二度の翻訳を経ているので、信頼度はどうしても落ちざるを得ません。

日本語に完訳されたテクストはこれですべてだと思っていましたが、本日知ったところ、「ケルト研究会」という組織がかつて存在しており、その会誌「Studia Celtca Japonica―ケルト研究」において、「美姫デアドレの悲話」と題して、土居敏雄氏によりデアドラ (Deirdre) の物語が完訳され、対訳の形で複数の号を跨いで掲載されていたようです。大学の私の先生が、そのまた別の先生から第9・10合併号(1975年)、第11号(1976年)、第12号(1977年)を譲られ、それらを私に貸していただいたのですが、第9・10合併号で第6回目、第11号で完結となっているので、前7回にわたって掲載されていたことになります。この研究会と、現存する「日本ケルト学会」の関係はどのようになってるのでしょうか。気になります。「Studia Celtca Japonica―ケルト研究」のバックナンバーも入手したいところです。

11/8追記:『愛知県立大学外国語学部紀要 言語・文学編』(第11号、1978年)に掲載されている、土居敏雄訳「デアドレの悲話」を入手しました(こちらでは以前ついていた「美姫」の語はないようです)。氏による翻訳は上記の『ケルト研究』を含めて都合三度学術誌上に掲載され、そのうち恐らくこれが最も新しいものです。これは土居氏によるふんだんな解説を含み、前半は原文テクスト、後半に邦訳を掲載しています。訳文は文語体で、雰囲気が出ています。テクストの変遷や言語的な面からの解説が有り難いです。

さて、全部で四つです。もしかしたら「Studia Celtca Japonica―ケルト研究」にさらに掲載されていたかもしれませんが、少なくとも私が把握している限りではこれで全てです。沢山ありますね。素晴らしい。

まあ、そんな現状を知った結果、「ならば不詳このわたくしめが翻訳して進ぜよう」と思い立ち、今に至ります。まだ形にはなっていませんが、毎日少しずつ進めています。

今回少し触れましたが、日本語・英語それぞれでアイルランド・ケルトの伝承に触れようとするとき、どのような一次文献・二次文献があるのかについて、そのうちまとめてみたいと思います。それでは。

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