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根本的な解決を目指しつつも受容へ向いたい

こんにちは。ピヨッペです。仕方のない事についてのお話です。

問題の根本的解決が現状では限りなく無理に近いから悩むのではないか

実生活において、腹の立つ事ややりきれない思いは無数に存在しますよね。その様な場面においては、多くの場合は防衛機制が働く様に思います。抑圧や否認や逃避や昇華などのアレです。防衛機制のアプローチはいくつかあり、人や状況に応じて違ったアプローチを取るとは思いますが、それらの根源はいずれも現状では受け入れ難いという感覚から引き起こされている様に思います。

辛ければどんなアプローチをとってもいい

逃避と聞くと、ネガティブなイメージを想起するかと思います。目前にある問題から目を背けて他の事にうつつを抜かすなどけしからんと思う方もおられるでしょう。それはおそらく逃避が解決に対して消極的な態度であると認識しているからではないでしょうか。私としてはその感覚の他に、もう一つの考えとしてご提案をしたいです。逃避は積極的で能動的であるという見解です。根本的な問題の解決が現状では不可能だと理解しているからこそフラストレーションが溜まる場合が多いと思います。解決不可能であれば、受容してしまう事ができれば、気持ちの上では楽になるのではないでしょうか。受容へ向かう為の過程として、防衛機制がおこなわれているのであれば、決して一見消極的に思える行動や態度も無意味なものではなく、積極的で能動的な態度と解釈することもできないでしょうか。そう考えると現実逃避なんて単語はネガティブな文脈で持ちいられる場合が多い様に思いますが、一概にわるいことだとも言えないのではないでしょうか。

死について

生物にとって普遍的なテーマとして取り扱われる死についてですが、これは生を受けた以上逃れられぬことはできない絶対的な概念です。現代医療においては、医療技術の進歩により延命治療が可能になっていますよね。でもこれって言わば死への対症療法であって、原因療法ではありません。現在ではまだ、死を克服する方法は見つかっておらず、そこには依然として、衰弱や死そのものへの恐怖や不安などがあるかと思います。未だに現実味を帯びていない自身の死について、ではなくとも、親密な他者の死と置き換えてもいいかと思います。絶対的に起きる死に対して私たちが出来ることとは、対症療法的なアプローチをしながら、その時間を使って受容しようとする事だと私は思います。もちろん、延命治療を受けたくないと考えることや対症療法的なアプローチをしたくないと考えることは自由だとは思います。それも一つの受容の形であると思います。

かといって最初から受容しようなどという気は持たなくていい

人生のあらゆる不条理や理不尽に対して、疑問を持たずに受容をする必要は全くありません。まず、根本的な解決を探って様々なアプローチを試してみて、そのうちに自分や他者と折り合いがつけられて需要への道がやっと見えてくるものだと思います。まずは好きなようにやってみるのがいいのではないでしょうか。良い悪いは置いておいて、とにかくやってみる感覚を持つ事が納得や受容の為には必要なのではないかと思います。好きにしようとした結果、私はさっきカレー食べ過ぎて胃が破裂しました。


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