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『顔見たくなかった』ショートショート小説

『顔見たくなかった』

「いててっ」
 身体中に鋭い痛みが走る。いつの間にこんなところで寝ていたんだろう。辺りを見回すとそこは地下鉄のホームで、青くて硬いベンチに横になっていた。
 最近、二十年以上勤めている会社の出した商品に不備が見つかり、その回収だったり、損害の穴埋めだったりで激務に追われ、毎日遅くまでの残業が続いていた。おかげさまで駅のベンチで熟睡してしまうほどの疲労が積まれていたのだ。
 凝り固まった身体を少しずつ起こして立ち上がった時、ちょうど電車が来た。どうやらこれが最終電車のようで、もし今起きずに電車に乗れなかったらと思うとゾッとした。明日も仕事があるため、少しでも自宅の布団でこの疲れた身体を癒す必要があったから。
 車内には数人の乗客がいた。私のように遅くまで仕事をしていたのであろうサラリーマンや、浴びるほど酒を飲んできた様子の大学生など、この数人中でも色とりどりだ。ただ、一つ共通することがあって、それは皆下を向いて眠っていることだ。
 正面の車窓に映る自分の顔を見てみると、やはりひどく疲弊しているのがわかる。虚ろな目をしていて、頬も痩せこけている。私は今年で五十五歳になる。年齢だけは確実に一年に一度重ねるのだが、老いのペースはそれを遥かに凌駕しているように思う。これも毎日の激務が原因なのか、それとも家庭でのストレスが原因なのか。
 結婚して二十五年経った今では、妻は私を”お金を運んでくる人”としか見ていない。昔は、帰れば玄関まで来て「おかえり」と言ってきたのに、今では目も合わせずに、「それチンして食べて」と言うだけ。寝室が同じということだけが夫婦であるという証明になっているような気がする。娘は早々に家を出て、東京で一人暮らしをしている。悪い男に引っかからないよう願うが、もし私が心配の電話をかけようものなら、ため息混じりに「大丈夫だ」と言われるか、無視されるかのどちらかだ。
 一家の大黒柱は、老朽化が進んでしまっている。
 そんなことを考えているうちに降りなくてはいけない駅に着いて、電車のドアが開いていた。
 私は慌てて電車を飛び出す。ホームに足をつけた瞬間に、席に忘れ物をしていないか不安になり、振り返り確認する。大丈夫だった。何も忘れてはいない。……しかし、何か、今、とてつもない違和感に襲われた。なんだろうか。今振り返っていた間、視界に入ったものの中に、何か、信じられないようなおかしなものがあったような気がする。なんだ。
 そんな違和感を黙って運ぶように、電車は次の駅に向かうべく動き出した。
 私はその違和感が何かわからぬまま、駅を出た。時刻は零時三十分。昼間はそれなりに人通りが多いこの街でも、この時間だと人の気配すら感じられなくなる。
 静まり返った街を歩きながら先ほどの違和感が喉の奥に突っかかる。ここまであとを引くこの違和感はただ事ではないような気がして、自然と自分の鼓動が早くなっていくのを感じた。
 その時、突然、目の前にある自分の影が濃くなった。何事かと思ったが、単に後方から車が一台来ているだけだった。ほっと肩を撫で下ろし、車を避けるため、路の端に寄った。
 何を敏感になっているのだろう。ただ車が来ただけだというのに。
 車が私の横を通過しようという瞬間、私はそれとなく運転手の顔を見た。そこで私は恐怖に似た衝撃を受けた。そして同時に、先ほどの違和感の正体もわかった。
 顔がなかったのだ。今の運転手の。先ほどの違和感とは、電車を降りる寸前、車内の乗客の顔が私の目に映った。そして彼らもまた、顔がなかった。目の端に一瞬映った程度でしっかりと認識することができなかったのだろう。しかし、たった今走り去った車の運転手は、確実に顔がなかった。
 顔がなかったというのは、顔はあるのだが、顔である部位に目も、鼻も、口も、眉も、あるはずのものが何一つなかったのだ。それはまるで「のっぺらぼう」のようで、現実離れした不気味なものだった。そんなはずがないという思いで、私は駆け足で自宅に帰った。久しぶりの長距離走は、身体に応えたが、それ以上の興奮した精神状態により、普段の数倍も早く自宅に辿り着いた。
 部屋の電気はまだ明るい。妻がまだ起きている証拠だ。
「おい、みきこ!」
 扉を開け、叫ぶ。当然ながら、出迎えというものはなかった。
 部屋に入ると、妻の幹子は深夜のテレビ番組を見ていた。そして私はもう一度叫ぶ。
「みきこ!」
 一瞬肩を上げた幹子はゆっくりと私の方を振り返る。
 顔がない。幹子の顔からも、目や口や鼻が全て消えていた。
「どうしたのよ、そんな血相変えて……なんか顔色悪いよ?」
「幹子お前、顔どうした」
 気が狂いそうになりながらも、必死な思いで私は尋ねた。
「どうしたって、別にどうもしてないけど」
「ないじゃないか!」
「なにが?」
「顔だよ!」
「……何言ってるの?」
「さっきから人の顔がないんだよ! お前も、みんなのっぺらぼうなんだよ」
「……あなた、酔ってんの?」
 自分が訳のわからないことを言っているのは自覚している。だが私は見たままのことを言っているだけなのだ。しかし、それが幹子に伝わることはない。
「一度冷静になりなさいよ」幹子はそう言って、冷たい水がなみなみ入ったコップを手渡してきた。私はそれを一息に飲み干す。
「酒なんか飲んじゃいない」
「じゃあ一体どうしたのよ」
「それは俺が聞きたいんだよ!」
 こうしている間にも幹子を見ると、そこにはのっぺらぼうがいる。実際、ここにいるのが幹子なのかどうかもわからない。目の前ののっぺらぼうは一体どこから声を発しているのかもわからない。
「きっと疲れているのよ。夕飯は済んでいるの? 食べるならチンしてあげるから、その間にお風呂入ってきちゃいなさいよ」
 妻が、いや、こののっぺらぼうが妙に優しい。しかし、のっぺらぼうの作る飯など、得体のしれない物でも入っているんじゃないかと心配である。
 やはり、今日はあまりにも疲れていて、幻覚でも見てしまっているのだろう。本当に単に気が狂っているだけなのかもしれない。私は冷静を取り戻し、風呂に入って、疲れを癒すことにした。
 が、風呂を出た後も幹子は変わらずのっぺらぼうだ。しかし、飯だけはいつもと変わりない。テレビに目を向けるが、出演しているタレントも相変わらずのっぺらぼうだ。もはや誰なのか一切わからない。きっと寝ればこんな状態も治るだろう。ひどい焦燥にかれているのものの、身体の疲労は簡単に私を眠りにつかせた。

 翌朝、七時くらいに目が覚めた。昨晩あんなことがあったのにも関わらず、思いの外質の良い睡眠をとることができた。だが、あの体験は私の全身にまだ色濃く残っている。隣には私に背を向ける体制で幹子が寝ている。顔を覗こうと思ったが、やめた。もし、まだのっぺらぼうだったら、それこそ単なる疲労だと言い訳にできず、自分が重大な疾患でも抱えてしまっているかのようで恐怖だからだ。冷めきった結婚生活とはいえ、私は幹子を養わなければならない。娘が東京で困ったことがあった際に助けられるようにしておかなければならい。だから、こんなところで病気を抱え、仕事ができなくなるようなことはあってはならないのだ。
 私は幹子が起きる前に、会社に向かうことにした。だが、もし外に出ても、のっぺらぼうばかりだったらと思うと、足がすくむ。
 私はなるべく通行人の顔を見ないよう、下を向きながら歩いている。だが、意識すればするほど、自分の視界にわずかに入る人の顔に注意を向けてしまうのだ。
 やはり……顔がない。
 心臓の鼓動が早くなる一方で、歩く速度は遅くなっていく。だが、止まることはなかった。気づくと、駅の改札を通っている。毎日の通勤が脳にプログラムされていたかのように、機械的に私は駅のホームに立ち、電車を待つ。
 ホームの反対側にいる人々も、私の後ろに並ぶ人も、皆、顔がない。
 その時だった。
 私の六つか七つ隣のホームドアの前に並ぶ男が特別な存在感を放っていたの気づいた。まるで白紙に黒いシミが一箇所ついているかのようにその男は目立っていた。
 なぜなら、男には顔があるのだ。若くてほりの浅い男で、スーツを着ている。
 私は間にあるいくつもの列をかき分け、その男の前に立った。
「顔だ、顔がある!」
 私は男の肩を掴んでそう言ったが、男は平静な様子で私を見つめるだけだった。
「君、どうして顔があるんだ」
 普通こんなことを知らぬ人に言われたら、多少は不審がると思うが、男は表情を変えず、ただ無気力な様子で私を見つめるだけだ。私は男の肩を揺らしながら、ほかの人は皆顔がない、君だけはある、君は人の顔が見えるか、と必死に訴えた。すると男は黙って周囲を見まわす。
「本当だ、顔がない」
 男は、人々の顔がないことに気づいたようだが、眉ひとつ動かさず冷静だった。
「どうしてそんな平気でいられるんだ!」
「興味ないですもん。だって僕死んだはずだから」
 男の言っている意味がよくわからない。
「どういうことだ」
「さっき僕は電車が来たところに、このホームドアを飛び越えて、轢かれて死んだはずなんです。……ここが死後の世界ってことなんですかね。救いを求めて死んだのに、結局世界は続くんだなぁ」

 この瞬間、破れ落ちた小説のページが戻ってきたかのように、私は思い出した。
 私も死んだはずだった。昨夜、この男が言ったのと同じように、私は電車の前に飛び込んだ。私は死んだはずだ。
 そして全てを理解した。
 私は死んでいるのだ。そしてここは死後の世界。死後の世界は、天国や地獄といったものでも、新しい命に生まれ変わるというものではなく、生きていた時点の世界が継続されるのだ。何が変わったのかというと、いまだ生きている人間には顔がない。死んで、顔が出現する。それはこの男が証明した。顔のある私とこの男は死んで、こちらの世界で合流した。

 死んでもなお、辛い会社に行く意味のわからなくなった私は、踵を返し、自宅へ戻ることにした。

 ガチャ
 自宅のドアを開け、居間に入る。幹子がいた。
「どうしたのよ。会社は?」
 私の急な帰宅に驚く幹子は、目を丸くして驚いた表情をしている。


あとがき
ちょっとふざけてみました。
投稿頻度が少な過ぎて、、もっと頑張ってみます。
もう5月ですね、もうすぐ夏が来ます。今年は何年に一度の暑さになるのかしらね。

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