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甘い言葉でごまかしても、苦しみが増えるだけ

今日はちょっと落ち込んでいます。

それは自分の未熟さを体感したからですね。

しかし、この落ち込みは同時に

「快感」

でもあるのです。

筋トレというのは、カンタンに言えば、

「筋肉を疲れさせること」

言うたら、

「筋繊維を破壊すること」

でもあります。

それをしないと、筋肉は強くなりません。

こころも、まったく同じなんですね。

「疲れさせる」「破壊する」

ということをする必要がある。

しかし、これは

「成長、向上、進化」

したい方限定です。

筋トレも、「心トレ」も

しなくても生きていけます。

「トレーニング」というのは

「欲求」がない人にとっては

「苦痛」でしかありません。

まぁ、趣味ってなんでもそうですよね。

興味がない人にとっては、

山登りも卓球も合気道も将棋も、

「苦痛」

でしかない。

でも、「興味」「好き」があると、

「苦痛を乗り越えたい」

という欲求が出てくるし、

「苦痛がないと面白くない」

というふうに感じるのです。

だから、

「さらに心をよくしたい」
「メンタルを進化させたい」

と思う人たちにとって、

「落ち込む」

ということはトレーニング成功なのです。

それは

「きっちり向き合った」

証左でもあります。

最近のぼくは、

「受容」

ということをすこし勘違いしていたのではないかと思う。

「受け入れる」というのは、

「何でも受け容れる」ことではなくて、

「相手の中心と関わる」

ということです。

つまり、

「相手の体裁、ウソ、見栄、言い訳には付き合わない」

ということなのです。

それら「エゴ」を「相手にしない」ということ。
(※否定するわけではない)

そこに

「真の受容」

があるのです。

「仲が良い」というときの

「仲」

という感じがありますが、

「人」に「中(あた)る」

と書きますね。

これは「中心で出会う」ということなんだと

解釈しています。

表面上でワチャワチャするのは、

「仲」

ではない。

言いたいことは言う。

間違っていると思ったら、間違っていると言う。

イヤだと思ったら伝える。

そういう関係こそが

「仲」

なんでしょう。

ぼくは、その基本を忘れていなかったか。

「相手から好かれよう」と作為していなかったか。

伝えるべきを伝えていたか?

相手からの意見を受け容れる器はあったか?

受け入れがたきを受け容れる覚悟はあったか?

そのあたりを、十全に反省したのです。

だから、落ち込んでいるわけです。

甘い言葉でのごまかしは、愛じゃない。

その場限りのやさしい言葉は、やさしさじゃない。

現実から目を背けさせ、慰めることが

ほんとうにその人のためになるだろうか?

「キッツい現実」を「観る」

ということ。

これ、一人だったら、

ふつうは逃げてしまう。

「見なかったこと」にすればいいし、

「見えてないふり」をすればいい。

でもね、今の僕には

「ホンネの仲間」

がいるから。

「俺が逃げるわけにはいかない」

と思える。

だから、

「ちゃんと落ち込む」

のです。

「未熟さ」を観、

「弱さと情けなさ」を観、

「愚かさ」を観る。

「できていない」ことを受け容れる。

半肯定、半否定。

それこそが

「折れない自信」

を育んでいくんだと思う。

空虚な褒め言葉よりも、

「芯(真)に刺さる言葉」

を紡げる人間でありたい。

そんなことを考えています。

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