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小説を書いていて思う、自分にとっての純文学の定義とか

こんばんち。小澤演技です。小説を今日も書く。

毎日書いてはいるんですけど、なかなか終わらない。迷いながら書いているからかもしれないなぁ、と思っているし、反省もする。

今日は、小説を毎日書いている僕が、純文学について思っていることを書く。とりあえず手を動かすことで、脳みその中を整理したいという目的もある。なので、非常にまとまりがなく、かつ迷いながら書いているし、雑な文章になってしまうので許してね。


純文学とはなにか、をなぜ考えているのか

いきなり核心。と、いきたいところだけど、なぜこれを考えるに至ったのか、その経緯から振り返る。
僕はもともと、小説のふりをしない小説がすきだった。たとえば、やし酒飲みとか、ゴーレム100とか、最近よかったのはジョンレノン対火星人。あとまっしろな楽園の砂(太ったおばさん、というペンネ―ムすごい)。

書いていて思ったけど、小説のふりをするってなんなんだ。小説らしさ、ここでの小説とは純文学的な、文学っぽいふるまいをしている小説のこと?

僕はどうしても現代のThe文学っぽい文章を読むと、そこに嘘を感じてしまうようになってしまった。なぜなら僕がそうゆう人間じゃないからだ。もっと適当で、もっとフラフラした生き方をしている僕にとって、ああいった文章はあまりにも息苦しい。

でもでも、たとえば太宰とか三島とか、あれは全然嘘を感じない。なぜならああゆう文章を書かざるを得ない時代だっただろうし、なにより本人たちの身体性があの文章に反映されているような気がするから。

でも現代の僕たちがああいった文章を書くのは嘘なんじゃないんだろうか。文章を書くという行為は高尚なものでもなくなってしまった気がする。
SNSとかで、パソコン、スマホを使って、だれもが平気で月に1万字以上を書くようになってしまった。文字を紡ぐこと自体が特別ではなくなった時代に、太宰とか三島みたいな文章はそぐわない、と僕は個人的に思っている。

うーん、ともかく、僕は自分の文章に嘘が混じってほしくない。

小説を壊す

純文学をどう定義するのか。これはネットでもたびたび話題になる。しかし僕の場合は、これだ!というものを未だに見つけていない。一生見つけられないかもしれないが、なんでもかんでも白黒塗分けることが小説でもない、と僕は思っているので、まあいいかって感じだ。

↑の考えに至るまでに、僕はさまざまな思考を辿って来た。
これまで、自分の中に、これこそが純文学だ。という確固たる定義を持つたび、僕はその定義を打ち破る作品に出合ってきた。

文章は美しいものだ。

どうだろう、木下古栗がいる。高橋源一郎もいる。彼らは悪く言えば下劣な文章を書く。でも僕は彼らの本を好んで読んでいて、そこにふくまれた途方もない正直さも感じる。嘘がない。僕もそうゆう文章を書きたいが、書けないでいる。

~た。~た。~た。と同じ文末を用いるのはリズムが単調で好ましくない

パスカルキニャールの世界のすべての朝は、は【~た】という過去形を連発している。すべての見えない光、は【~る】という現在形を連発している。ライトノベルで僕がいま一番推している「死亡遊戯で飯を食う」も【~た】を連発しているが、良い文章だと思う。

!とか?の後ろはひとマスあけるべきだ。

舞城王太郎は開けてない。開けていないからこその勢いがある。ところで、舞城さんが脚本を書いたID:INVADEDをみたことがあるが、あれも面白かったなぁ。今度詳しく書きたい。相変わらず舞城さんは探偵について書いている。

他にもあったと思うけど、よく思い出せない。いちいちメモをしていないからだ。最近は考えたことをメモするように意識付けしているので、たまに見返すと面白かったりする。

上記はわずかな例外をあげているだけなのかもしれない。けれど、純文学とはこうゆうものだ、という決めつけに、小説は常に抗ってきたのだ、というようなことを考えると勇気がわいてくる。
僕もかなりの捻くれモノだから、親近感が湧く。

自分が小説とはこうゆうものだ!と仮説を立て、それを打ち破ってくれる小説がひょっこり現れるのは、なかなかにショックだけど、同時に嬉しくもあって、ああよかった、やっぱり小説って深くて深くて底なんかなくて、定義なんて立てられるものじゃないんだよね、みたいな、安心を感じることもできて、だから小説は面白いんだ。

どうゆうものが純文学か、という主張を言葉にした瞬間、それが嘘になってしまうような感覚に陥るので、僕の場合は純文学の定義を持たないことこそが、正解なのかもしれない。
↑なんてなげやりで適当な結論なのだ。最高。

すでに小説はある

そう、すでに小説はある。だから、自分にとっての小説を見つける必要がある。僕たちは小説を探さなければならない段階にきている。

僕の脳みそから引用

と、高橋源一郎とか、保坂和志が言っていた気がする。正直そんなこといってたっけ?という感じだし、自身がない。でも↑に書いた僕の中のイマジナリー源一郎とイマジナリー和志が言っていたことは、なかなかにその通りだ、という感じがする。

時折、僕が小説を書く必要があるのか、という問題にぶち当たる。好きで書いているので、必要性もクソもないんだけれど、それでも考えてしまう時がある。別に面白い小説を書きたいわけではなく、小説を書くという行為を通して、僕は自分の中にある嘘を減らしていきたいだけなんだけど。

でも嘘をなくすためには、自分にとっての小説を探さなきゃダメなんだろうなという、うすらぼんやりとした気持ちもある。めんどくさすぎる。仕事と両立できるだろうか。

ゲームから小説を考える

コレを読んでいる人は、知るか、という感じだろうが、僕は小説を読むことだけが趣味ではなく、けっこう多趣味だ。趣味を列挙するのは止めておく。その中のひとつにゲームをすることがあり、特に僕はMotherというゲームが好きだ。

最近はVoid strangerというゲームもやったし、ずっとやり続けているCaves of Qudも最高におもしろい。

これも書いていて気づいたことだけど、僕はドット絵とか、レトロなゲームを好きになる傾向がある。やはりそれも嘘に関係しているんじゃないか、という仮説を立て、ここから考えていこうと思う。ゲームはリアルにするほど【気になる嘘】が増えていくんだけど、これはしょうがないことで、【気になる嘘】を増やさざるをえない。

すべてを現実通りにすることはできないし、それをしてもプレイヤーは喜ばない。追及するにも限度があるし、ディレクターはその限度を追求するべきではない。が、僕みたいな人間は目ざとくそうゆう場所を見つけ出し、勝手に違和感を感じて気持ち悪くなるのである。なんてめんどくさい客なんだ。

というか、三次元の世界に生きているから、三次元で表現された創作で嘘があると敏感に気づいてしまうのは無理からぬことなので。(と、自分を肯定してみる)

脱線したが、ともかくMotherだ。Motherと言えば、思い出すのは糸井重里で、僕は糸井重里が好きなので、彼のインタビューをよく見る。そこで印象深いことを言っていた。

僕は、あいしてる、を素直に言いたかった。

僕の脳みそから引用

↑も曖昧な記憶を手探りで探し当てて書いた文章だから、正確に糸井重里が言っていたものではなく、僕の中のイマジナリー重里が言っていたことかもしれない。が、それは置いといてその通りだな、と僕は思う。

なぜ、あいしてる、を素直に言うことがMotherというゲームを作ることに繋がるのだろうか、ということを考える。

たしかに現実に近い創作の世界で、あいしてる、と言われても響かない。どこか作り物めいた響きを感じる。創作以外でも、僕たちが活きる現実の世界でもそうだ。糸井重里はコピーライターだし、余計に感じていたのかもしれないな、と勝手に予想してみる。

現代社会の創作は思っていることをストレートに表現できない病気にかかっているってことなんだろうか?

小説の書き方を語る人をツイッターでみかける。
悲しい人を表現するときに【悲しそうな】みたいに直接的に表現するのは良くないと主張していたけど、まさにこれは思っていることをストレートに表現できない病気なのかもしれない。僕は悲しそうな人をみると、悲しそうだな、と思うし、泣いている人を見ると、泣いてるなぁ、と思う。
まんまを思う。

けど、じゃあ悲しい人を描写しよう。小説として書こう。と肩に力が入ると、そこに嘘が入り込む。表現も、なんだか迂遠で綺麗で難しくて小説然としたモノを使ってしまう。が、これは僕じゃないし、身体性が伴ってない。

どんどん話が展開するが打ち切る。ここで、イマジナリー重里の発言に戻る。あいしてる、を素直に言いたかった。僕も言いたい。でも無理だ。僕が愛してるを使うと嘘っぽくなる。言葉が他人の響きを持ってしまう。

この響きをできるだけ近くに、できれば隣人ぐらいの、隣人の響きをもった言葉にしたい。そのためには、リアルな小説では駄目なのだ。リアルって言うのは、自分の実生活を反映させたような、自分が思っていることを書くようなもの。

でも、嘘を書かず、でもリアルでもなく、自分のことを書かずに自分を書くなんてことが本当に僕にできるんだろうか。

リアルと言えば、最近もなんかファイナルファンタジー7のリメイクで同じような議論が勃発していたような気もする。グラフィックがリアルになったことによって、クラウドがティファの下着を見つけるシーンが妙にリアルでキモくなったから削除された、みたいな。

想像してみると、確かにキモい。

また脱線してきたぞ。つまり僕が言いたいのは、グラフィックが綺麗になることによって失われたモノもあるぞ、ということ? ゲームとか小説とかの創作が、現実に近づくことによって失われるもの。そこに目を向けて、というか、自分が書きたい正直さはその部分にあるんじゃないのか? とか思っている。

情報量が多くなると、本当に主張したいこと、イマジナリー重里だったらあいしてるっていうシンプルな主張が霞んでしまう。それに嘘の雰囲気をまとってしまう。情報量を減らす、ゲームならドットとかにすることによって、できるだけ余計なものが付かないようにしたかったんだろうか?

変にまとめようとして失われた主張があったらごめん。

僕にとっての小説とは

ピカソを考える。ピカソは凄く絵がうまかった。青の時代なんて特に。

でもキュビズムに行く。ぶっちゃけうまいとは思わない。彼のキュビズムを上手い、もしくはスゴイと思うためにはある程度勉強する必要があるのだと思う。もはや感覚的に芸術を理解するのは難しくなってしまった(あくまで僕自身が)。

先日、高橋源一郎の小説講座的な本を読み、そこで小学生が書いた文章を読み、驚愕する。これは小説だと僕は思って、こうゆうのを書きたいが、僕は既に小説をたくさん読んでしまったので、こうゆう小説を書くことができないんじゃないか、という気持ちになった。

ピカソに戻る。ピカソはすべてを知ったうえで、もう一度子供の用に純粋な絵を描きたかったんじゃないか、という仮説を立てる。
ちなみに僕は美術史とか全然知らないので↑は適当な仮説である。

全てを知ったうえで、純粋になることはできるのだろうか、ということばかり最近考えて、それを小説に反映するためにどうしたらいいんだろう、というようなことを、さらに考える。

そもそも純粋になるということは嘘ではない、ということなのだろうか?
僕は死ぬまでに純粋な、自分にとっての嘘がない、正直な小説を書くことができるのだろうか。

少なくとも、すべてのことは小説に繋がっていて、関係がない知識なぞひとかけらもなく、僕が僕自身の小説をみつけるためには、僕の経験や知識を全てかき集めることが最低限の礼儀として必要なの?

わからね。精進します。

とはいえ守破離も大事だなと反省する

そう、なんか外れている考えばっか書いてきたが、やはり守破離の考え方は大事で、特に守は大事だ。一般的なお作法を知ることは決して無駄ではないし、そのお作法を守って小説を書くという行為も無駄じゃない。

ただ、ちゃんとした文章というのは案外簡単にかけるので、あまり個性がなく、誰が書いても一緒になってしまう、ということも忘れずに頭に入れておく。たとえば、アカデミックな文章とかは、こう書くべきである、という型があり、あまり差はでない(それでも癖は出てしまうってのは、人間の面白いところだけど)。

う~ん、でも論文とか読むと結構癖があるから、結局型にはまりきった文章というのは存在しないのかも?

まとまらなそうだから無理やりまとめる

時間には限度がある。限度がある以上、まとまってなくてもとりあえずのまとめを書く必要がある。社会人の辛いところ。

僕は小説を書くことを通して、小説とは何か、純文学とは何か、どうなりたいのか、僕が学んできたことは何か、とか、いろんなことを知ろうとしている。小説以外の文章でも知ろうとしている。書くことと知ること、考えることを同期させる。過去と、未来と、現在がまぜこぜになっているのが、今の自分で、その自分を探す感覚がある。自分と一緒に小説を探している。

以下、注意書き。

  • 僕は僕自身を救うために小説を書いているわけではない。

  • 創作と現実はできるかぎり遠ざける。

  • 小説は誰かを救うためにあるのではなく、ただそこにある。

  • すべてを知ったうえで純粋な小説を書く。僕の中のイマジナリピカソみたいな。

  • 現実ではないが、嘘でもない小説を書く。

以上、終わり

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